小説 川崎サイト

 

天狗の棒術

 
 まだ日の出前。しかしうっすらと明るい。雪明かりではなく、明けていくためだろう。少年は裏山を少し入った所にある道場へ通っている。山道が途中で膨らみ、ちょっとした広場になっている。少年はそれを道場と呼んでいる。確かに道にできた膨らんだ場所なので、道場かもしれないが、そうではなく、剣の道を究める武道の道場。ただ、そんな建物はない。
 少年はこの寒い中、敢えて道場へ通う。寒稽古というやつだ。
 木刀を適当に振り回しているだけなのだが、毎日それをやっていると、素早く振り下ろしたり、払ったりすることができるようになる。また間合いを幾通りも覚えた。さっと切るか、じわっと切るか。またフェイントではないが、ふわりとした剣先から急激に叩き付けるとか。
 少年は武家ではない。町道場はあるが、藩士でないと入門できない。少年は百姓の五男なので、武芸など必要ではないのだが、武芸好き。
 ただし、木刀を振り回すのが好きなだけで、それ以上のものではないようだ。つまり武芸で身を立てようとかの思惑はない。
 剣術に興味を持ったのは、その練習が面白いからではなく、村に流れてきた股旅を見てから。無宿人。所謂旅のヤクザ。博打打ちだ。
 これが村人を集めてサイコロ博打を初め、そのトラブルで、役人が来ていた。ヤクザは刀を振り回したが、相撲取りの経験のある村人に押し倒されてお縄になった。
 少年はそれを見ていた。太刀を持ったヤクザが負けている。それは武芸の心得がないためだろう。
 少年は相撲取りにもヤクザにもなるつもりはないが、百姓の子でも一応はなれる。そのヤクザも、元は百姓だったはずで、何かの都合で、流民となったのだろう。あのヤクザ、もう少し太刀の練習でもしておれば、素手の相撲取りには負けなかったはず。技術以前に、大男に突っ込まれ、何もできなかったようだ。
 それがきっかけではないが、この頃の少年は強くなりという共通した何かがあるようだ。喧嘩に強くなりたいとか。
 それで少年が選んだのは相撲や取っ組み合いではなく、剣道だった。もし無宿人に身を落としたときでも、剣術の心得があれば、多少は有利なはず。
 それで寒い中、木刀を振り回していた。
「無駄なこと」
 と、声。
 奥山の方から来たのか、背の高い大柄な男がいる。顔が奇妙。山人かと思ったが、山神に近い人。天狗の面を被っている。だが天狗にしては鼻がそれほど長くはない。
「面を取れ!」
「面ではない」
「では天狗か」
「鞍馬の天狗のようなものじゃ」
「じゃ、わしは牛若丸」
「剣術を教えに来たわけではない。無駄だと教えに来てやった」
 天狗は太く長く角張った杖で、少年の足を払った。とっさのことだが、反射的に木刀を立て、払いを止めたが、持つ手が痺れ、離してしまった。
 払い損ねた天狗は棍棒を引き、棒の中程で握り返して少年の首筋で止める。
「無駄なことじゃ」
「武芸が無駄なのですか」
「剣術より、棒術の方が上。だから太刀は無駄なこと」
「そうですか」
「刃物は無用」
「あ、はい」
「偶然、ここを通りかかった。もし棒術を極めたいのなら、教えてやろう」
 少年は刀でも棒でも何でもよかった。ずっと使っているのも棒のような木刀。太刀は刃があり、そこは握れないが、木刀は棒は触れる。
 この天狗。実は僧侶で、少年は弟子になるため、稚児として、天狗に従うことにした。これは年季務めの稚児ということで、親は銭を貰ったので、文句はいわなかった。
 その後、この少年は僧侶になり、大和の国、宝蔵院流棒術の四天王に次ぐ位にまで昇った。僧侶ではあるが、武芸者になれたのだ。
 
   了

 


2018年1月21日

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