小説 川崎サイト

 

いつも通り


 いつも通りにやれることは、そのまま続けてもいい。というより、日々それをやっていると、これは日常化し、普通のことになってしまう。あくまでもその人にとってだが。
 いつも通りにやるのが苦しくなったり、また、いつも通りやれない状態になったりと、外因が加わることで、いつもの流れがぎこちなくなることもある。一過性のものならそのうち直るのだが、そうではない場合も。
 目指しているのはいつも通りの状態だとすると、そこに戻すのが目的になる。長年使っていた道具類などが劣化したり、壊れたりする場合、買い換えればいいのだが、以前に買ったものが、もうなかったりする。それよりも、より良い物が時代とともにでき、それしかなかったりする。
 それを使うことで、いつも通りに戻るのだが、実はそうではなく、進歩しすぎていたり、便利になりすぎていた場合、そこまで望んでいない場合もある。また勝手も違い、使いにくかったりする。
 単純なものなら昔とそれほど違わないだろうが、逆に単純なものはもうなくなっていたりする。他のものと合体し、その中の一つとして機能していたりとか。
 いつも通りの使い心地とか、いつも通りの事柄というのにも始まりがあり、あるところから始めているはず。気が付けば、ずっとそれを続けていたこともあるし、途中でやめてしまい、普段はもうやらなくなったこともある。
 いつも通りは何処かで始まり、いつの間にかいつも通りとなる。同じことを日々やっていると、この繰り返しが日常の日々となり、こなれた世界となり、特に深く考えなくてもやっていける世界。これは惰性でもいい。癖でもいい。
 その人の日々の生活のベースになっているのだろう。だから昨日と同じような今日が来て、今日と同じような明日が来ることを望みはしないものの、当たり前のこととして受け取っている。有り難いとは思わないし、迷惑だとも思わない。
 嫌なことも日々繰り返していると、当たり前の嫌さ加減になり、嫌なことは嫌なのだが、それを省略すると、あとで苦しいことになるので、保険的に受け入れ、嫌事でもやるのだろう。
 日常の日々というのはそういったもののが張り巡られた世界で、いわば結界。
 これは自分の流儀というほどのものではなく、自然とそうなったのだろうが、ものすごく決心し、そうなるように始めた事柄もあるだろう。今では何でこれを続けているのか、もう理由さえ忘れていることもあるかもしれないが。
 とにかく、この結界のようなものが崩れると、日常が少し乱れる。ある程度まではいいのだが、ペースが狂い出すと、いい感じで日々続けていたことにも影響する。
 そんな大げさなことではないのだが、日々の過ごし方は大事だ。それが狂いだしたとき、その有り難さを感じるもの。
 一寸した工夫で日常がより快適になるのだが、敢えてそれをやらない人もいる。これはバランスが崩れるためだろう。何処かを動かすと、何処かがおかしくなる。そのときは気付かないが。
 しかし、いつも通りも実際には変わっていく。一つが変わると、他のものも変わりだしたりする。子供時代のいつも通りと大人になってからのいつも通りとが違うように。
 いつも通り。これは安定している。過去の実績があるというより、何度も踏んだ道のためだろう。だから大丈夫だという保証がある。
 しかし、人は必ずしも安定した日々を求めているわけではない。気持ちの何処かで、ここではない別のものを見ていたりする。
 
   了



2018年2月2日

小説 川崎サイト