小説 川崎サイト

 

反応の人


 深見は名は深いが深く考えない人だった。殆どが反射神経だけで生きているのだが、これは意識的に考えないだけ。動物的な神経に近く、これは生命体としてはもの凄く大事なこと。しかし、人としてはどうなのかとなると、これは問われる問題だ。
 自律神経的に勝手に作用する反応ではなく、少しは考えた上での反応もある。ただ、あくまでも反応なので、浅い。印象だけで決めたり、習慣で自動化されているものを踏み続けた。
 反射的ではなく、反応というのは、少しは間があるし、意識の回路も回転し、色々と問い合わせているはず。得か損か、これをすればその後どうなるか。または周囲が何と言うだろうとか。
 深見の反応はそこまで含まれているので、好き放題の反応とは違う。ただ、単純な反応なので、中身は浅い。が、印象から受ける抽象化で、逆に一を見て百を知るわけではないが、身に合った反応を取るようだ。中身ではなく、印象。だから中間の過程を省略し、いきなり結論を得ているようなものだが、そんな高尚なことではなく、やはりどこまでいっても反応は反応。
 たとえば胡散臭い話をする人の話を聞くとき、その中身ではなく、語り方で分かるようだ。まあ、胡散臭い話とは怪しい話で、それだけでも分かるのだが、ありそうな話、もっともらしい話もある。語っている人も怪しい話としては喋っていない。だから胡散臭いかどうかはそのときは分からない。熟知した人なら、話の中身で大凡のことが分かり、これは胡散臭いぞ。と知るのだが、深見の場合、中身よりも、その人の喋り方や、言葉遣いの中に含まれている単語や、その発音。当然目や顔色や表情から出る臭さを嗅ぎ取る。これはただの反応。しかしもの凄く早い。
 世間には見た感じは教養もあり、知識もあり、当然知恵もある人がいる。それらは反応とは逆側なのだが、この反応だけで生きてきた人は、それなりに巧みな見識ができる。研ぎ澄まされるのだろう。だから、あの馬鹿が、と言われているような人が、意外と上手く生きていたりするものだ。ただそれは解説できないことで、説明もできない。知識はないが愚者ではない。自分のことに関してだけは賢いのだ。
 深く考え、思案する人は、動きが重くなる。そしていつまで経っても結論が出ない。熟考に填まると泥沼になり、抜け出せなくなり、何も決められない。
 その点、深見は答えを出すのが早い。一秒もかからない。これはイエスかノーか、オンかオフ的判断に近い。中身ではないのだ。ただ、それは深見にしか分からない。深見にしか通用しないやり方になる。
 人は結局反応しているだけに過ぎないのかもしれない。それが下等な、低レベルなことと思われたくないので、色々と中身を盛るのだろう。
 
   了



2018年2月17日

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