小説 川崎サイト

 

桜の客


 桜も散り、もう見に来る人もいなくなった頃、桜の花びら川に雨が降り、白いものがゆっくりと流れてゆく。
「あの人、今年は来なんだのう」
 山寺の住職が手伝いに来ている孫娘に言う。孫娘は花見の頃、茶店の手伝いで来ている。それが終わる頃は春休みも終わるので、都会へと帰る。
「去年来てた人?」
「来ていたのかもしれんが、姿を見かけなんだ」
「私も一度だけ見たわ、雨の日でしょ」
 その人は雨の日に一人、傘を差し花見をしている。住職は十年近くそれを見ている。
 シーズン中でも流石に雨の日は人出がない。無人に近い。しかし、その人だけは来ている。そして隅っこで傘を差し、じっと桜を見ている。人がいないので目立つ。だから住職も毎年気にして見ている。ところが今年は来ない。
「雨が降っていなかったからでしょ」
「そうじゃなあ。今年は咲き始めから散るまで雨は降らなんだ」
「どうして雨の日に来るの、お爺ちゃん」
「さあなあ。きっと静かなためじゃ。独り占めできる」
「私は去年見たけど、あれは人じゃないよ」
「そういえば顔を見たことがない」
「人じゃないよ、お爺ちゃん」
「いや、風情の分かる御仁じゃろ」
「雨じゃ花見なんて」
「そこが風流というもの。きっと何かをやられている方じゃ」
「じっと立って見ているだけでしょ」
「何かを得ようとしておるのかもしれん」
「ふーん」
「だからただの行楽ではない」
「そうよね、わざわざ雨の日にだけ来るんだから」
「それで今年は降らなかったので、来なかったようじゃ」
 そのとき、呼び鈴が鳴る。
 下の茶店からだ。誰かが押したのだ。
 茶店は今日で閉めることになっていた。桜は既に散っているが、春の花々が境内では咲き誇っている。晴れていれば季候も良いので桜は散っても別の花見はできる。しかし雨だと来ない。一人も。
 孫娘は山門まで傘を差して下り、茶店の裏口から中に入った。
 雨なので縁台は濡れているが、茶店の軒下に座る場所がある。そこに一人の男が座っていた。
 孫娘ははっとした。去年見た人と同じようなレインコートと蝙蝠傘。目深に被った帽子も去年の人と同じ。しかし、こんな近くで見るのは初めて。
「ききききつねうどん」
 男は濁った鼻声で注文した。
 あの人ではなかったようだ。
 
   了
 




2018年4月9日

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