小説 川崎サイト

 

恍惚市場


 気が沈み、景気のいい話など聞く気も見る気もなくなくなる時期、吉岡は寂れた町へ行く癖がある。同調性が良いためだ。
 宝中の町がそうだが、町名や駅名は景気が良い。宝の中にいるような場所。しかしここの駅前はドーナツ化現象で寂れ、元あった繁華街は駅から少し離れていることと、何車線もあるような道路ができたため、駅と繁華街を分けてしまった。
 吉岡はテレビの別の話で、その町がチラリと映っていたので、ここは寂れていると思い、出掛けた。
 そういうことができる元気は、前向きな元気ではなく、後退の元気。元気がないときに出る元気だ。
 駅から降りると多少は人がいる。昼間のためだ。駅前のショッピングセンターはお馴染みのガレージ通り。ショッピングビルはあるが、人影はまばら。店員の方が多い。
 駅のすぐ脇にあるコンピにだけはかろうじて人が出入りしている。あとは無人のゴーストタウン。車だけが行き交っている。通過するだけの幹線道路で歩道も広いが、自転車は一台も止まっていない。全て駐輪禁止地域のためだろう。ポツンポツンと人が立っているのは指導員だろうか。整理員ではない。いずれも年寄り。
 吉岡は陸橋で広い車道を乗り越え、繁華街へと出た。昔の市場などが残っている場所で、いくら寂れたとはいえ駅から近いのだから、飲み屋ぐらいはあるはずなのだが、道路で切られたためか人が寄り付かない。だから駅前だけはそれなりに飲食街があるが、いずれも大きなチェーン店。個人の店は全滅している。人通りがあっての店屋なのだ。
 さて、話はここからだ。繁華街の一角にアーケード付きの市場がある。ここは洞窟化しダンジョン化しているはずで、寂れた状態を見るにはもってこい。しかし封鎖されているかもしれないが、道路をアーケードで囲っているだけの通りなら、道を塞ぐようなことはしないだろう。
 市場は繁華街の中程に入り口がある。既に店屋はシャッター街なので、華やいだところは微塵もない。
 市場への入り口は狭い。だからあっという間に通り過ぎたのだが、そのとき、密度の濃いものを見た。今、通り過ぎるときに見たものは何だったのかと思い、すぐに引き返した。市場の入り口がそこらしいと気付いたためもあるが、人がいたのだ。老婆がぽつりと立っているというような絵ではなく、ぎっしりと人が詰まっていた。ものすごい密度だ。
 吉岡は満員電車のドアが開き、そこへ乗り込むような気持ちで、アーケード市場に突っ込んだ。
 人人人、奥が見えないし、店屋も見えないほど。もの凄く繁盛しているのだ。しかし朝の満員電車と同じで、ほぼ全員終点まで行くので、降りる人がいない。それに車内の人もドアまで近付けないので、降りられない。
 つまり出て来る人がいないので、混んでいるのだ。
市場のアーケード通りそのものが満員電車の箱状態になっている。
 寂れたものを見たくて来たのだが、逆になった。もの凄い人出で大繁盛しているのだ。そんなものは見たくないのだが、不思議と静か。賑わっているのだが、物静か。音がしない。
 しかしいったいこれだけの人が何を目的に、何を買いにここに来ているのだ。店屋は開いているようだが、陳列台が見えない。白熱灯が無数に灯り、もの凄く明るいのだが熱い。
 吉岡は人を掻き分け、もう一歩奥へと入り込んだが、様子は同じ。買い物などしないで、ただ単に立っている人もいるし、立ち寝をしている人もいる。
 悪いものがここに溜まってしまったのだ。
 吉岡は寿司詰め状態の中でぼんやりとしてきたが気持ちがいい。恍惚とはこのことだろうと、ふと思った。
 
   了



2018年4月26日

小説 川崎サイト