小説 川崎サイト

 

鳴くまで待とう


 今日はゆっくりしたいときがある。ゆるりと休憩するとか、のんびり過ごすのではなく、毎日繰り返している日常の中で、そんな気持ちになることがある。このゆっくりとは落ち着いてとか、淡々とかの意味で、サボって寝ているわけではない。だから一日の過ごし方に関することで、休むわけではない。
 高田がそういう気になるのは朝を過ぎ、一段落したとき、何故か調子の出ないことがあり、休まないものの、少し手を抜いて楽にこなしてやろうとなる。これは簡単になる。手加減すればいいだけのことで、よりハードにこなすことを思えば、楽な話。
 つまり、調子の悪いときは何もしたくないのだが、それでは段取りが狂う。あとでしんどい目に遭う。だから休まない程度に、簡単に済ませようという程度。
 そういえば最近の高田は気の張ることばかりを続けてやっていた。それが何とか終わり、一段落したとき、ふぬけのようになった。頑張って徹夜し、いい結果が出せたとしても、翌日がしんどい。
 それと同じではないが、頑張りすぎたのだろう。だからこのへんで低空飛行に入ってもいい。
 そのとば口が今日なのだ。懸命にやっていた反動が出たのか、何もしたくなくなった。気力を使い果たしたのだろう。張っていた気も、それが過ぎたため、もう張る必要もなくなったためもある。
 それで高田は沈静化したのだが、元気がない。風邪薬を飲んで、ぼんやりしてしまったような状態。静かにしていることと、無気力になっているのとでは違う。淡々と過ごすのではなく、何か芯のないままやる気を失せて静まっているのとでは。
 鏡のような水面。これは波風がないため、静かなため。その心境には到底なれないが、家訓というのがある。それが実家の仏壇に漢文で残っている。先祖の中にそんな人がいたのだろう。どんな人だったのかは分からないが、残っているのはその直筆のみ。形見の品としておいているのだろう。
 高田は子供の頃、これはお経だと思っていたが、漢詩だった。その意味は二度ほど聞かされたが、波立たぬ湖面のように、何があっても静かな心で受け止めよ、と言うようなできそうにないような家訓だ。
 しかし、この漢詩、後で調べると、先祖の詩ではなく、有名な漢詩だったようだ。
 しかし、この家訓は今でも通じるし、今の高田にも通じる。波風が立ちすぎる性分のためだろう。きっとこれを書き写した先祖も、似たような性分だったに違いない。
 しかしその日の高田、そんなことをしなくても湖面は静か。これは気力を失っているため、鎮静状態のため。だから鏡のような水面どころか、その上を歩けたりする。気は張っていないが氷が張っている。気持ちも固まってしまったのだろう。
 高田はその日、だるい状態で一日を過ごしたのだが、結局のんびり過ごせた実感はない。
 しかし、翌日になると、また新たな一日が始まり、寝起きは意外と元気だった。
 気持ちなどそう簡単にコントロールできるものではない。どう言い聞かせても、鳴らないものは鳴らない。
 そして勝手に鳴り出すまで待つしかないようだ。
 
   了

 


2018年5月24日

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