小説 川崎サイト

 

世界


 行く機会が減った場所は、もう自分の世界から消えてしまいそうになる。二度と行くようなこともなければ、世界から消えたも同然。ただ普段からその場所のことを考えたり思っていると別。実際には行っていないのだが、自分の世界の中ではまだ存在している。
 行ったり行かなかったりの場所。これは中途半端な場所で、消えたり顕れたりする。
 全くの新しい場所は世界に組み込まれるかどうかはまだ未定だが、実際にそこに立っているときは確実に自分の世界の中にある。それが消えてしまうものなのか、または世界としてあり続けるのかはまだ未確定。
 こういうことは勝手にやっていることで、珍しいことではない。しかし、世界を作る動きもある。最初からそこにある世界ではなく、自分で作ったり、見いだした世界。これは地理的な場所とは違う世界だが、重なっていることもある。
 世界を生み出す。これは作為的なことで、簡単には手に入らないし、行けない。ただ、その手前程度なら行けるかもしれない。途中程度なら。
 個人の持つ世界観は個々バラバラなのだが、当然共通することも多い。一人一人に世界があるのは組み合わせ方や感じ方が違うためだろう。しかしその個人の世界、何でもないようなものかもしれない。
 病気などで伏せっていたり、外に出るのが厳しいときや、また他の用事で、最近ご無沙汰となっている場所、当然人もそうだが、近所の道沿いもそう。毎日通っていたところへ行かなくなると、もう自分の世界からは消えている。しかし完全に消えたわけではなく、まだまだ残っているのだが、行けない事情があると、当分、そこの世界はお休み。しかし単なる通路であり、道なのだから、そんなものは大して意味はない。そして行けるようになったとき、風景も戻る。それは自分の風景。
 自分が持っている風景なら見渡す限りの土地を所有していないといけないが、そうではなく、自分に付着していた風景。
 この風景の戻りは、自分の世界に戻れたような気になる。なくした世界を取り戻したような。
 風景を見る。これは何でもないこと。大きな意味はない。特に日常風景がそうだ。しかし意外と日常風景、いつもの風景が消えることは、何かがあったのだろう。まあ、引っ越せばそんなものだが、毎日見ていたようなものとはもう簡単には出合えない。その代わり新規の風景が開くのだが。
 風景そのもの、ある世界そのものはあまり変化しない。いつも見ている山など、毎年形を変えるわけではない。ただ、子供の頃に見ていた山と大人になってから見る山とでは山の感じは違うだろう。山だけを純粋に見るのなら別だが。
 そして大人になれば近所の山などあまり見ていない。既知のものしてあるため、それ以上興味がいかない。
 さて、世界だが、これは風景だけではなく、出来事などが加わるし、一番大きいのは存在という問題だろう。
 そして一般的に言われている世界観とは一寸違う。なし崩し的に世界が消えたり顕れたりもする。
 
   了


2018年6月19日

小説 川崎サイト