小説 川崎サイト

 

蝉捕り少年の頃


「振り返りすぎましてねえ」
「はあ」
「少年時代まで振り返ってしまいました。そんな昔まで遡ることはなかった。ちょっと以前に帰ればよかったんですが、あまり良いものがない」
「何を振り返られたのですか」
「良い事があった頃だよ」
「はい」
「ちょっと昔に戻った方がいいんじゃないかと思いましてね。先のことばかり考えていても、あまり良いものが出てこない。それにもう先は必要ではありませんしね。それで少し後退して、以前の良かった頃に戻そうかと思ったのです。これは趣味の問題ですから、あまり真剣になって考えるようなことじゃありませんがね」
「はい」
「今日のような暑い暑い夏の日、何をして以前過ごしていたんだろうとね。すると、蝉捕りを思い出したのですよ。これが少年時代。ああ、あの頃は良かったなあと思いましてね。何であんなに良かったのかと思いますよ」
「はあ」
「まあ、蝉捕りをしていた頃、これがもの凄く良い時期だとは思ってなんていないわけですよ。あの頃は遠い先を見ていたんでしょうなあ。大人になれば何をやろうとかね」
「じゃ、今も同じですね」
「え」
「もの凄く遠くを見ておられる」
「ああ、遠さでは同じだね。遠い方がいいもののように見えるだけなのかもしれませんねえ」
「きっとそうでしょう」
「それで私はもう先へと進むのをやめました。先の先はもう意外と近いですからね。遠くじゃない」
「それが理由ですか」
「駄目かね」
「まだ仕事をしてもらわないと、周りが困ります」
「私がやめると、みんな失業者になるわけじゃないでしょ」
「なるメンバーもいます」
「困ったねえ」
「では少し方向を変える程度でよろしいのでは」
「方向を変えてかね」
「それなら続けられると思いますが」
「たとえば?」
「その蝉捕り少年の方向とかでも結構です」
「蝉など捕っても仕方がないだろ」
「獣たちは故郷を目指す」
「私はケダモノか」
「その方角も有りかと。だからやめる必要はありません」
「しかし、まあ無理だ。今頃蝉捕りに行っても面白くも何ともない。それはイメージだ。あの頃のね。蝉が問題なんじゃない。蝉が欲しいのじゃない」
「はい、分かっております」
「まあいい。続けますよ。しかし、次からは私は自由にやります。それが条件です」
「はい、やめられるよりはましです。ご自由に」
「暑い最中、ふらっとしながらよく蝉なんて捕っていたねえ。しかし、あのとき木を見上げたときの青空と入道雲、あれは夢の中の風景のようだった」
「いいんじゃないですが、意外と行けますよ」
「そうだろ。しかし、私だけが楽しんでいるようで、悪いねえ」
「いえいえ」
 
   了


2018年7月4日

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