小説 川崎サイト

 

行楽苦楽


「おやっ、山田さん。歩き方がおかしいですが、怪我でもされたのですか。いや足の怪我とは限らない。腰を痛めたとか、他の病とかで」
「いやいや、昨日は行楽日和でしたので出掛けました。これがいけない」
「どちらへ」
「ちょいとした街歩きですよ。若い頃よく行った街がありましてねえ。それを懐かしんで見に行ったわけではないのですが、その近くで軽い用事がありまして。早く済んだので、そこへ寄ってみたのです。これがいけない」
「どういけないのです」
「歩いたからです」
「はあ」
「坂道の多い街でしてねえ。若い頃は気にならなかったが、結構高低差がありましてね。これは山登りと変わらない。しかもアスファルトなので、条件が悪い」
「それで足をやられたと」
「足が前に出なくなりました」
「股の付け根の前の方ですね」
「そうそう、そこです」
「普段、如何に歩いていないかです」
「歩いているつもりですがね」
「何分ですか」
「さあ、普段は五分とか」
「山田さんは自転車が多いですから、本当に歩いている時間は短い」
「はい、ところが昨日は連続して三時間ほど」
「それは厳しいですなあ」
「立ち止まったり、休憩はしましたが、最後の方になると、足が前に出なくなって、仕方なく立ち止まりましたよ。これが本来の休憩でしょ。進めないのですから」
「それで、どうでした」
「え、何がです」
「街を見に行ったのでしょ」
「はいはい、寄りましたとも。若い頃に立ち回ったところをね。しかし、その街が思ったより遠かったのです。用事が済んだとき、近くだと思ったのですが、意外と遠かった」
「それで都合三時間も歩いていたわけですか」
「その町を探すだけでも時間がかかりましたよ」
「そんなに狭いエリアですか」
「若い頃、よくそこを散策したのですが、分かりにくい場所でしてね。行き方を忘れていました。それに周りはほとんどがビル。昔を偲ぶものがないので、目印がない。古い道が広げられたり、新道ができて、勘が狂いました」
「何処なんです。そこは」
「幻の街です」
「じゃ、幻だったと」
「いやいやありますよ。勝手に私が付けた街の名です。そこは空襲でも焼けなかったのでしょうかねえ。名所旧跡じゃありません、ただの下町ですかな。しかし古本屋があったり、ジャズ喫茶があったり、小さいながら芝居小屋がありました。これは小劇場でしょうか。何かを改築してできたのでしょうなあ。だから手作りの劇場でしょう。若い頃は、このエリアが好きでしてねえ。その近くに安い学生アパートがありまして、何人か友達がいました」
「それはスペシャル地帯ですねえ。山田さんだけが楽しめる山田専用スペシャルドリンクのような観光地」
「そのはずだったのですが、ああ、ここだ、ここだと感激したりする場所が見当たらない。ああ、ここだったんだ、ふーんなるほどなるほど、あの頃は、ここで確か……などと感慨に耽りに来たのですが、浸れない」
「秘湯に来て湯に浸かれないのと同じですな」
「それで、ウロウロしすぎ、歩きすぎました」
「それで、足をやられたわけですね」
「しかし、一つだけ見覚えのあるものがありました。名水の祠です。大昔から水が湧き出ていた場所でしてね。井戸があります。その前に祠があります。これだけが残っていましたよ。その井戸に腰掛けて、学友と長話したことがあります。二人のときもあるし三人四人のときもありました。まさに井戸端会議です。まあ、これを発見したので、いいかと思い、駅に戻りました。そこは大都会の駅です。開発前はそれほどじゃなかったのですが、今は大都市ですよ。そこへ向かう坂道がきつくてきつくて、改札までやっと辿り着きましたよ。次は地下鉄の階段。人が多いですからねえ。石のように固まってるわけにはいかない。しかし遅い遅い。亀ですなあ」
「それはいい行楽でしたねえ」
「足は痛いですが、久しぶりに気持ちいい疲労感です」
「歩き疲れて足が痛いだけ。これはいいですねえ」
「しかし、三日ほど、この調子でしょうなあ」
「まあ、お大事に」
「はい」
 
   了


 




2018年10月11日

小説 川崎サイト