小説 川崎サイト

 

長い語りに入る


「そして、放置したまま何年も経っているのだが、たまに行くことがある。家賃も光熱費も自動落としなので、そこにいなくてもいい。そこを出たときと同じままの部屋。ある日、突然人だけが消えたような。作り置きの煮物の鍋は、流石に捨てたがね。生ゴミは出して出たので、匂うものはない」
「その話、まだ続きますか。あとどれぐらいで終わります」
「これは導入部でね。あと五時間、見ておいて下さい」
「じゃ、分けて話して頂けますか。他の人は聞いているだけなので」
「じゃ、私の持ち時間はどれぐらいかな」
「決まっていませんが、まあ、空気で分かるでしょ。数分かと思います」
「数分、じゃ、十分以内」
「まあ、そんなところでしょ」
 もう一人の客が「続きを聞きたい」と言いだした。他の客もそうだ。
 高梨は続きを話すことにしたが、長丁場になる。やはり何処かで切らないといけないだろう。
「その部屋は今もありますか」一人が質問する。
 ああそうか、問答形式でやればいいのかと、高梨は、それに従った。
「今もありますよ。鍵は持ち歩いていませんが、自転車で行ける距離にあります。前を通ることもよくありますよ」
「アパートですね」
「文化住宅です」
「使っていないのなら、借りるのをやめた方がいいのではないでしょうか」
「ついつい解約が面倒だし、荷物もあるし、それに片付けないと引っ越せませんし、まあ、使うつもりで、まだ借りているのです」
「もったいないですねえ」
「いや、安いですしね。それにたまに中に入ることがあります。これは特別な日です。ちょっと原点に戻りたいときなどにね。あの部屋に戻ればあの頃に戻りますから。読みかけていた雑誌とかも、そのままあります。冷蔵庫は空ですよ。でも電気は切っていません。ガスも」
「その部屋には特別な話があるのですか」
「だから五時間はかかります」
「何か怪異とか事件とかですか」
「そんなものはありません」
「じゃ、五時間もかかる話とは何ですか」
「初心の頃の話をやるため。五時間以上掛かります。いや、これは話が尽きないほどです。まだ若くて貧乏だった頃のいろいろな話。その証拠の品なども、まだ部屋の中にあります」
「まさか、死体を」
「だから、事件性はまったくありません。若かりし頃の思い出の玉手箱装置のようなものですよ。家具、箪笥。椅子。テーブル。作業机。それをどこで拾ったり買ったり、どんな感じで使っていたか。それらは全て青春の思い出に繋がります。だからそこんところを話し出すと長くなるということです」
「はい、分かりました」
「では、続けます。友人の友人が引っ越しましてね。結婚するとかで、そのときベッドがありました。まだ新しい。それを捨てるのはもったいない。それで私のところにやってきたのです。このベッドはですねえ」
「ああ、もう時間ですが」
「そうですか。質疑応答式でいけそうな」
「もう。皆さん帰る時間なので」
「あ、そう。じゃ、続きはまた後日」
 その後日の集い。もう誰も来なかった。語り部の高梨も行かなかったので、誰も集まっていなかったということを知る人は誰もいないのだが。
 
   了




2018年10月29日

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