小説 川崎サイト

 

さあ、行くか


 フーと頭の中に入ってくるものは、かなり偶然性が高い。何かが原因になっているはずなのだが、そのきっかけとなるものが分からないことがある。
「さあ、行くか」
 と高峯は、そのタイプのものが頭に入ってきた。よぎったというか、侵入してきた。しかし、何処から来たものかは思い出せる。現実に体験した、「ああ、行くか」のシーン再現ではなく、これは時代劇のワンシーンだろう。旅の途中で「さあ、行くか」となる。そこまでは分かるのだが、何故それが急に来たのかが分からない。
 これはいつの間にか鳴り出した音楽にも似ている。どちらにしても何処かにきっかけとなるものがあるのだろう。自由連想ではなく、自動連想に近い。勝手に連想している。連想する気などないのに勝手にやっている。
 これは下手な洒落を言うときとは違う。確かに「私」と聞いたとき、高峯は「和菓子」とくっつけたがる。「私」と「タワシ」もそうだ。しかし、それはきっかけがある。連想するパターンができているためだろう。
 しかし「さあ、行くか」にはそれがない。別にそれは何でもいい。別に行かなくてもいい。「さてこのあたりでいいだろう」などもそうだ。
 それらはセリフもので、フィクション。高峯の体験したことではないが、疑似体験でも、それは体験。そしてドラマの中のキャラと高峯とは全く違う。一方は存在しない。だが、それを見ているとき、高峯はそれなりに感情移入している。同化とまではいかないが、まるで自分のことのように思いながらドラマを見ていたのかもしれない。ただ、悪役のセリフなども、同じように浮かび出る。
「引けーい、引けーい」などだ。これは悪人が劣勢となり、引き上げるシーン。よく見るシーンであり、よく聞くセリフ。
 そういうことが頭をよぎることは珍しいことではないのだが、きっかけなしに頭に入り込んでくる。本当はちょっとしたスイッチがあるのだが、それに気付かない。因果関係が無いとしかいいようがないほど思い付くきっかけがない場合、それは偶然と受け止めるしかない。
 スイッチは外に向かっての感覚からではなく、内から来ていることもある。
 これが内なる声、内側からのメッセージだとすれば「さあ、行くか」はどのような価値があるのだろう。何もない。だから偶然出た目。だから出鱈目なのだ。つまりアトランダム。
 原因がある場合や思い当たる場合は偶然ではない。これははっきりと意識できる。
 そうではない「さあ、行くか」などに高峯は神秘的なものを感じる。きっかけが分からないためだ。
 内部からの飛沫のようなもの。そしてほとんどが価値はない。有為ではなく、無為。意味がない。
 ただの雑念として片付けるにしては、雑念の方が上等だ。雑念にはきっかけがある。しかし「さあ、行くか」にはそれがない状態で頭の中にふっとくる。
 天啓でも何でもない。インスピレーションでもない。もっと稚拙な構造だ。
 しかし、この意味のないものに意味を加えたりできる。きっかけがないのだから、それをきっかけにすればいいのかもしれない。アトランダムな偶然性というのは、意外といけるかもしれない。
 そして高峯は今度それが来た場合、何とかそれを使おうと考えている。
 
   了


 


2018年11月26日

小説 川崎サイト