小説 川崎サイト

 

反省会


 蛭田は今年無駄に終わったものをチェックしながら一人で反省会をしていた。これは苦しい。
 できれば思い出したくないことなのだが、その経験を活かせると思っている。しかし、いくら反省しても、また似たようなことをやってしまうことは確か。
 去年も反省会を開いた。これが甘かったのか、身にこたえていないのか、結果的には反省会そのものが無駄。
 つまり、反省会そのものをやることを反省しないといけない。それは反省会の改善ではなく、そんな会を開く必要があるのかどうかの反省だ。
 蛭田が反省する事柄のほとんどは積極的に前に出て、何かを企てたとき。それらを反省によって止めてしまうと、もう前に出て何かをやることをしなくなる恐れがある。成功の美酒が味わえるかもしれないことでも、失敗を恐れて、やらなくなる。
 しかし蛭谷にとり、何かを企てることは生きている証しであり、それを取ってしまうと生きがいがなくなる。
 毎年毎年その反省会を繰り返しているのだが、たまに反省などしなくてもいい年もある。そんな年はあまり良い年ではない。逆なのだ。
 生き生きとしている年は、もの凄く反省材料が多い年で、元気なので、いろいろとやっていたのだろう。そのほとんどは失敗に終わったり、途中でやめたものもある。ただ、それらに向かうときは生き生きとしている。
 今年、蛭田はそれに気付いた。何でもいいから失敗や成功に関わらずやっていることが大事だと。その方が日々元気に過ごせるし、やることがいろいろとできる。忙しいのはいやだが、自分が仕掛けたことなので、やらされているわけではない。
 要するに成功しても失敗しても似たようなものではないか。結果は得られなくても、その間、有意義に過ごせた。そこがポイントではないかと気付いた。
 大きなリスクを負い、無駄に終わったとしても、その間、遊べた。遊んだという感じはないが、充実していた。
 失敗したことも多いが、成功したとしても、それが永遠に続くわけではない。失敗していた方がその後の展開は成功していたよりもよい場合もある。
 失敗も成功もなく、途中でうやむやになり、中途半端で終わったことも多い。その場合、次の何かを探すことができる。だから無駄に終わったとしても次の展開へと進める。あっちは駄目だったのでこっちへ、こっちも駄目だったのでまた違うところへと繋がりはぎこちないが、何となく方角が掴めたりするし行くところができる。
 日が暮れるように今年も暮れゆく頃、蛭田は意外と静かだ。こういう暮れは、来年凄いことが起こる。嵐の前の静けさのように。
 そのため、恒例の反省会も軽く済ませた。反省する必要がないと気付いたためだろう。経験を活かさない。そちらの方が開放的。過去の失敗を活かすのではなく、失敗を活かさないことで、それに足を取られないで進める。
 蛭田の目標というのは大したことではない。成功してもたかがしれている。ちょっとした達成感に浸れる程度。大成功だとしても一時的なこと。最初からそれほど高い望みを抱いていないところはリアル。
 そして成功したとしても、成功したあとが厳しかったりする。下手に成功したばかりに、苦しい日々になる可能性もある。
 何かに成ってしまうと、もう他のものには成れない。
 向かっているときの快さ。それだけでいいのではないかと蛭田は気付きだした。
 成功への道が厳しいとき、そういう転換をするもの。失敗から何を学ぶのかは人それぞれ。そして学ばないことも、また一つの流儀だろう。学びすぎてあり得ないような理想を思うよりも。
 今年の反省会、これは蛭田の一人会だが、例年になく充実したようだ。
 
   了
 
   


2019年1月1日

小説 川崎サイト