日常生活
日常というのは最初からそうあったのではない。いつの間にかそうなったもので、気が付けばそんな日々を送っていたことになるが、そんなことはいつ気付くのだろう。これは一寸日常から離れて戻り掛かったとき、気付くのかもしれない。
日常は成り行きでそうなることが多い。妥協点とか落としどころとして収まり具合が安定したとき、日常になる。計画的になることもあるが、限られたところだけだろう。
非日常は日常の外だが、その境界線は曖昧。以前なら日常的にやっていたことでも、もう何年もやっていないと、日常に組み込まれていないので、日常外的なイメージになる。しかし以前までそれが日常だったので、非日常というほど大層なものではない。
また、日常外になっているが、それを取り込み、定着すると、日常内に入る。
これまでにないものを取り込むと、今までのものと置き換えられることがある。そういうのは何処が起点になり、何がきっかけでそうなるのかは分かりにくいことがある。必要性や成り行きでそうなったとか、または偶然もある。
日常内とは自分内という感じもある。自分らしいとか、自分に都合がいいとか、好きだとかの価値というより味方だろう。お身内のもの。つまり自分の世界内での違和感のないもの。また特性に合っているのだろう。いずれも自分の世界が結界のように張り巡らされており、その中での話が多い。まったく別世界のことなどは最初から取り組む気などは湧かないが、憧れとか夢とかを感じているときは、それを引き付けたいと思うかもしれない。できればそれを日常の中に取り込みたい。
また日常の結界は形だけのものになり、それができたときの意味を失っていることもある。ただの癖のようなもの。習慣化され、それをやるのが決まり事になっていたりとか。
日常の中に異物が入り込むと、追い出しにかかるわけではないが違和感を感じる。これは敵ではないか、自分の世界を崩す脅威となるのでは、などと警戒するが、好奇心もある。
一寸した異分子的なものを上手く取り込んだとき、これがいつもの日常を活性化させるかもしれない。
そういうことは実際には繰り返し繰り返しやっているに違いない。そして変化しながらも今の日常パターンのようなものが出来上がっているが、それが完成品ではない。常に何処かが入れ替わったり、増えたり、減ったりしているはず。
また、なし崩し的にそうなってしまうこともある。崩れると、また作り直すような感じで、日常を変えていったりする。
了
2019年1月26日