小説 川崎サイト

 

都会の渚


 都会の雑踏。柴田は最近出ていないので、久しぶりに行くことにしたのだが、雑踏見物が目的というのは動機として弱い。人々が行き交う場所なら近所にもあるが、絶対数が都会の方が多く、密度の高いところも多い。びっしりと人がいる場所を見たくなる心理が柴田にはある。しかし、これは特徴というほどの特徴ではない。自慢できるものではない。また趣味といえるかどうかも曖昧。
 何らのイベントで人が集まっていることがある。イベントの中身が目的で、集まってくる人を見るのが目的ではない。ただ、柴田はイベントよりも、そこに集う人々を見るのが好きだ。
 一箇所へ一つの目的で集まってくる人々よりも、雑踏と呼ばれる目的が各々違う人々の方がいい。ただ、駅前などの通路は駅へ向かっている。乗換駅が多くあれば、それぞれの乗り場へと向かう。目的がはっきりしているが、電車やバスに乗るのが目的ではないだろう。それに乗って何処へ行くか。行った先で何をするか。それを思うと、雑踏の人々はバラバラ。同一の目的ではない。特に一人で歩いている人がいい。
 初詣なども人が多いが、目的は同じ。願いはそれぞれ違うだろうが、似たようなものに分かれる程度。
 都会の雑踏、群衆。そういうのを見ると柴田はほっとするようだ。この安堵感は人々はまだ営業しているというか、それぞれ生きていること。まあ、ゾンビの群れなど見ることはあり得ないが、現役で人生を営み続けているということ。その人達は、人生規模のワンシーンに立ち会うわけではないだろうが、数が多いと、そういうシーンに向かう人もいるはず。あの日、あの時が分かれ道だったとか、あの日から展望が開けたとか。あの日が不幸の始まりだったとかも。
 だから群衆を見ていると、見えはしないものの人生の一コマをやっているのだ。一人でそこに出た人は表情が乏しく、感情までは見えないが、中には機嫌の悪い顔や、一人笑いしている人や、下を向いている人、早足で颯爽と行く人。など、それなりに表情のある人もいる。
 そういう大勢の人達を柴田は最近見ていない。これを見ないと体調が悪くなるわけでも、ストレスが溜まるわけではないが、たまには見ておいた方がいい。多くの人間を見ることで、その中の一人である自分を確認できるためだろうか。群衆は人一般。ほとんどが初めて見る人達だろう。
 これが昔の村ならどうだろう。毎日毎日同じ顔しか見ていないのではないか。しかもほとんどは知っている村人達。たまに見知らぬ人がやってくる。異人だ。
 当然村から出ると、見知らぬ人がかなり増える。さらに遠くの村、遠くへ繋がる街道沿いの宿場町などへ行くと、初めて見る顔ばかりかもしれない。
 人間は他にも一杯いるのだということが分かる。見知らぬ土地は新鮮だが、初めて見る人も新鮮。そこで絡みがなくても、見ているだけで得心したりする。違いを見たり、似たものを見付けたりとか。
 雑踏の中の人々。これはいつか何処かで合った人達と似ているし、また当然だが違う。
 また、見物している側も実は見られている。そのため柴田は見に行くと同時に見られに行く。ごくありふれた通行人同士なので、ちらっと見たり見られたりする程度で、絡みがあるわけではない。人から見られるということは、自分を浮かび上がらせることになる。自分を自分として操縦しながら歩く。
 これが柴田が都会の雑踏を見に行く理由だ。たまにそういうことをして、世間の浅瀬を見て帰り、見られて帰る。
 
   了





2019年2月5日

小説 川崎サイト