小説 川崎サイト

 

日常の渚


 真冬、晴れて陽射しがあり、暖かく、しかも風のない穏やかな日。こんな日は年に何度もない。春は遠いが小春日和。小さな春が来たようなものだが、これは一瞬のもの。明日からまた寒くなるだろう。普通に戻るだけなのだが。
 岩田は時至り、今こそ絶好のチャンスと勢いづいたが、特に何かをするわけではない。下拵えもなく、準備もない。絶好の日和が来ただけ。こういう日に出掛けないといつ出掛けるのかと思うのだが、日課というのがある。それは朝食後の散歩。その途中に喫茶店があり、そこに入るのが日課。これは省略してもいいのだが、出掛ける決心をしたのは散歩に出てしばらくしてから。これは暖かいぞと、そのとき思った。そのため、近所を一回りする程度の服装だし、鞄には本が一冊と薬だけ。メモ帳とボールペンが入っているが、カメラがない。
 しかし、取りに帰ればいいのだ。まだ十分と立っていない。しかし、十分歩くとそれなりの距離まで行ける。戻る気がしなくなる。
 では朝の日課が終わってから改めて出掛ければいい。このままでは駅とは方角が違うので、そのまま行く気になれない。
 それで、いつもの散歩コースを歩いていると、梅が咲いているのが見える。まだ木の枝の方が目立つ。枝は黒く、花は梅色。酸っぱそうな色。何も梅園に行かなくても、この町内でも梅見はできる。
 さらに行ったところに、いつもの喫茶店があり、そこに入る。既に朝食を済ませたので、コーヒーを飲むだけ。その同じ値段でトーストがモーニングサービスで付いてくるのだが、それは取らない。断る。なぜならこれから本を読むためだ。口の中をグチャグチャさせながら読むのは今一つ。それにマーガリンかバターが塗ってあるし、パンを食べると血圧や血糖値が上がる。心臓がパクパクいうわけではないが、身体が熱くなる。だから、読書の邪魔。
 本を読んでいるうちに、本の中に入る。これで世界が一度途切れるのか、読み終えたあと、出掛けることが億劫になった。このまま静かな気持ちで戻り道の散歩を続け、部屋に戻ってからDVDを見たい。昔の映画だが、屋台売りの安い物。それを何作も買っていたのだが、一気に見る体力がないので、少しずつ見ている。あの剣士はどうなるのだろう。女だとばれるのは時間の問題。実は江戸育ちのお姫様なのだ。
 その続きが気になり、出掛ける気が失せてきた。このままのんびりと過ごしたいと思う気持ちへ傾いたのだろう。そちらの方が楽なため。
 年に数回しかないチャンス。しかし、まだ真冬が始まったばかり、もう一回か二回はあるだろう。そのとき出掛ければいい。
 岩田は飛び立とうとしたのだが、日常の引力が強くて、その圏外へは出られなかったようだ。
 
   了


 


2019年2月8日

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