小説 川崎サイト

 

スローな悩み


 日々気ぜわしく過ごしているように思え、高峯は少しゆったりとした暮らしぶりを考えた。そんなことを考えるゆとりがあるのだから、既にゆったりとした暮らしぶりをしているのだろう。
 しかし、このゆったりが意外と慌ただしい。ゆったりと過ごすネタを入れすぎたのか、時間がいくらあっても足りない。毎日押し気味で、のんびりと暮らすゆとりがない。
 一つのことだけゆったりとやればそれでいいのだが、ゆったりも飽きる。そのため、ゆったりの間に休憩のゆったりを入れることになる。これが増えすぎた。ゆったりというのはおまけ。そのおまけのおまけが増え、さらにそのおまけまでくっつけたので、それらを消化するだけでも忙しい。
 食べ物と同じで、それ以上食べられないことがある。腹が一杯で無理をして食べると逆に苦しいように。
 高峯はそれを反省するが、改善されたとしてもただ単にゆったり過ごせるようになるだけで、大したことではない。
 しかし、反省の甲斐あってか、一つのことを思い付いた。何もしないでぼんやりしておれば、それが最高のゆったりではないかと。だが、これは考えた先から崩れ出す。何故なら、ずっとぼんやり何もしないでいることは座禅のようなものではないか。すぐに何かしたくなる。有為なことでなくても姿勢程度は動かしたいだろう。また動きたい。これは運動ではない。
 高峯はもう年で、特に何もしなくてもいいのだが、若い頃のことを思い出した。そこにヒントがあった。それは忙しさの中の静けさ。まるで台風の目の中に入ったように、忙しいのだが、ゆったりしているという心境を得たことがある。これは忙しさに麻痺して、心が飛んでしまったか、または集中しすぎて、我を忘れ、忙しいとかゆったりとかの思いが頭の中から消えたのかもしれない。
 そうなるとできるだけ忙しく気忙しいことをやり過ぎた方がその境地に入れるような気がしたが、これもまたすぐに崩れた。
 何故なら、ああ今ゆっくりしているという感覚も、そのときは意識にないため、味わえない。
 それで次に考えたのは、身体をゆっくりと動かすこと。まずは体から。これを体勢という。体がゆっくり目なら気持ちもそれにつられてゆっくり動く。身体の中には当然目玉も入る。気忙しげな目付きでキョロキョロしない。目を動かすときも、ゆっくり動かす。
 そのゆっくりさで収まる程度のことを一日すればいい。要するにネタを減らすこと。やることを減らすこと。
 だが、これもまた辛抱できなくなるはず。能か狂言のように無理とに身体をゆっくり動かすなど、できそうにない。意識しているときはいいが長く続かないだろう。
 ゆっくり、ゆったりと憩える聖域として睡眠がある。ここは寝てしまっているので、意識的に何かをするということは消える。これは作らなくても勝手に眠くなるので、誰でも持っているものだ。
 それはいいのだが、問題は起きてから寝るまでの間。高峯はここに昼寝を一本入れているので、寝ることのゆったり度の高さは既に知っていることになる。これはもう使っている。
 一日ゆっくりと過ごすというのは、それまでの間、有為なことで忙しく、やっとゆっくりできる日ができたときの話だろう。
 高峯に欠けているのはこの有為なことを普段ずっとしているということ。ここから起こすのは難しい。既に一日中ゆっくり過ごせるのだから。
 だが、ゆっくり過ごせるはずなのに忙しく、決してゆっくりではない。そのため、それも含めて、そういうこと自体が呑気な悩みなのかもしれない。
 ゆっくりに疲れたとき、流石にゆっくりしたくなる。これは休憩に疲れて休憩するとか、寝過ぎて逆に疲れたので、また寝るというような話に近い。
 
   了
 



2019年2月15日

小説 川崎サイト