小説 川崎サイト

 

琴の峰の山怪


 琴の峰を経て樽沢へ至る。
 藤田はいつもハイキングコースを通るたびに、その道標を見ている。コースから外れるため、そちらへは行かない。樽沢はかなり遠い。村に出る。だから町に戻ることになるのだが、その距離がかなり遠い。もの凄くアバウトな道標だが、嘘ではないのだろう。
 琴の峰はどの峰なのかは、ここからは見えない。峰峰の頂や、山のコブのような塊が多いため、特定できないが、一番近い峰のはず。その枝道に入り込まないと見えないのだろうか。または、何でも見ている峰のことかもしれない。本コースは登りになり、そこからほとんどの山を見ているはず。いちいち山の名前を覚えていないのは、予定にないためだろう。
 地図を見れば、出ているはずだが、琴の峰は覚えやすく印象に残るので、すぐに分かるはず。しかし、何度かこの辺りの地図を見ているが、琴の峰の文字など見たことがない。きっと別名なのだ。しかし、樽沢は実在する。聞いたことがあるし、樽沢行きのバスなどを見たこともある。山のとっかりにある村なので位置はおおよそ分かる。
 問題は琴が峰と樽沢の距離が長すぎること。
 藤田は月に二三度山登りをしている。軽いハイキングだ。その日も、馴染みのコースを歩いているとき、琴の峰を経て樽沢へ至の道標のあるところまで来た。一寸変化を楽しんでやれと、寄り道することにした。樽沢まで下る気はない。途中まで行き、引き返すつもりだ。もしかして琴の峰が見えるかもしれない。そして、何だ、あの山だったのかと思うだろう。
 この本コースはハイカーが多い。いつの間にか追い抜いていたり、追い越されていたりする。しかし、琴が峰へ向かうその道に入る人など見たことがない。
 人が踏み歩く頻度が低いのか、道がこなれていない。ゴツゴツとした岩や小石が踏むたびに、ずるっと滑ったりする。多くの人が通っておれば、落ちるべき小石は落ちる。崩れるべき土は取れる。人よりも水の通り道に近い溝のような道だ。そのため下り始めている。ということは琴の峰はもっと下にあるのだろうか。道標があるところは標高六百メートルほど。登りきっても一番高い峰でも八百メートル。
 藤田は下っていくが、すぐに道らしいものが出てきて、それは溝のような道とは別の方へ行く。これは明らかに人が通した道。琴が峰はその方角だろう。そうでないと、水の通り道では一気に沢へ降りてしまう。
 その道らしき道に入ると、下りでも登りでもないので歩きやすい。土と下草とのバランスがよく、足の裏が喜んでいる。
 どうやらその道、山の周辺を回り込んでいるらしい。左側は山の腹が迫り、右側は見晴らしがいい。
 山を取り巻くように通っていたなだらかな道が切れるのか下へ向かう道になる。
 左側は急斜面。これが琴の峰かもしれない。下り坂に差し掛かったとき、振り返ると、迫っていた山が少し引いたのか、山の姿が分かるようになる。山道は一本。
 見晴らしは少しよくなったが、遠くの方までは見えない。方角的に樽沢方面だと思われるが、目印がない。ここから村や町が見えるはずだが、樹木や山襞が目隠しになり、それほど見晴らせない。
 藤田はハイキング地図を広げた。
 樽沢方面からの登り口があるはずなのだが、それはコースにはない。だから樽沢からのハイカーはいないはず。まあ、村近くの背後の山なので、路はいくらでもあるだろうが、行き止まりになるのかもしれない。
 迫っていた山に沿って歩いていたのだが、その山が琴の峰らしいことは分かるが、何故琴の峰なのかは謎。樽沢から見れば、琴の姿をしているのかもしれない。琴にも色々な形はあるが。
 それで、納得できないし、樽沢までは遠いはずなので、行く気はないので、迫っているその山に分け入ることにした。道はないが、樹木や灌木の隙間を通れば何とかなる。問題は勾配だけ。しかし、取り付くところはいくらでもあるので。岩だけの崖ではないので、登りやすい。
 勾配がきついので、斜めに這い上がっていくことにする。子供の頃からこういったところを遊び場にしていたので、ターザンごっこのようなものだ。
 灌木などで目を突く恐れがあるので、サングラスを掛け、帽子も深く被り。タオルを首元にしっかりと巻いた。妙なところで、猿にでもなったようだ。
 斜め登りが効いたのか、下がよく見えるところまで登った。町は見えないが、下の山が見える。いずれも低い山で、建物も見える。それで、場所が特定できた。あの道標があったところから離れていないので当然だが、下の風景は同じようなもの。
 上を見ると、まだ繁みが続いており、頂上も近い。その山の向こう側の山が見えているためだ。それはいつも行く山の頂だろう。
 休憩してから、また繁みに分け入り、たまに飛び出ている岩の隙間を抜け、再び、また繁み。今度は勾配が弱くなってきたので楽だが、そのかわり、繁みが深い。前が見えないほど深くなる。山の頂上付近の斜面なので、これはおかしいとは思いながらも、先へ進むと、灌木の間隔が広くなり、下草や笹の海が消え、歩きやすくなる。土と落ち葉のやんわりとした場所に出る。
 道かどうかは分からないが、森の中に出たようだ。樹木と樹木の間隔がある程度あり、灌木が減り、下草だけになるので、歩きやすい。
 しかし、どう見ても鬱蒼と生い茂った森。
 そして来るものが来た。
 琴の音。
 周囲を見渡すと、上の方に屋敷の一角が見える。
 藤田は恐ろしいところに入り込んだという気はなく、琴の音に吸い込まれるように、そちらへ向かっていった。
 
   了



 


2019年3月21日

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