小説 川崎サイト

 

春が来た


 春の陽気に誘われて、固くなっていた頭も柔らかくなるのか、頭突きができないという話ではなく、考え方が柔軟になり、閉ざしていた禁じ手のようなものに、また挑戦したくなる。
 春になると心機一転、新たなことにチャレンジしている滝田だが、春の暖かさで次第に熱だれし、暑苦しくなる頃には終わっていた。それは発作のようなもので、長続きはしないのだが、これまでにはないことをやりたがる癖がある。だが、これは春先ならよくあること。
 そして暑くなってきた初夏、そこでバテてしまい、そのあと来る鬱陶しい雨季で気も滅入り、もう何もしたくない状態となり、閉じ籠もっている間に夏が来て、その暑さで頭が朦朧とし、もう何も考えなくなる。
 ということは滝田は季節の影響を諸に受けて動いているようなもの。つまり何処の誰でもない自然現象、季節の移り変わりが最も強い影響を滝田に与えていることになる。
 朦朧とした頭も夏が終わるとクールダウンし、秋の気候の良さから、天高く馬でそこまで駆け上れそうなほどの覇気を受けるのだが、その年はもう残り少ない。涼しさが寒さに変わる頃、最後の散り花のような紅葉を見てしまうと、これで今年も終わると悟り、既にここで終わる。
 では何を悟ったのだろう。
 毎年毎年悟のだが、次の年に活かせない。忘年会で全て忘れてしまうわけではないが、綺麗さっぱり忘れている。そして春先になると、またあらぬ事をやり始める。
 あらぬからあるようにしたいのだろう。やってはいけないことではないが、やってもしくじるので、それを戒めるため、あらぬ事として除外。それが春になると解ける。気温が高い目になるため、雪解けと同じ。
 そして巡り巡って、この春、滝田は懲りずに何かを始めようとしている。この端は何処にあるのだろう。何か理由があるはず。望みがあるため、やるはず。だからその発端が分かればいい。何処から発しているのかと。
 しかし、そんな難しいことではなさそうで、季候がよくなったので、何かしたい程度のようだ。
 だが、そういう気持ちがあるうちは、まだ大丈夫だと滝田は言い聞かす。途中で終わるにしても、そういうことができる状況を逆に愛でるべきだろう。
 
   了

 
 
 


2019年4月9日

小説 川崎サイト