小説 川崎サイト

 

選択


 一つのことを思うと、複数のものも一緒に起ち上がる。最低一つ。場合によっては三つか四つ。密度が高いのは一つ。たとえばライバル。自分以外は全てライバルだとすれば、密度は薄くなる。
 これは事柄によって浮かび上がるものが違う。箸の一つでも太いか細いか軽いか重いか滑り具合はどうか、長さはどうかで箸売り場で複数の箸から選ぶことになる。割り箸ならそう変わらないはずだが、竹を使ったものは滑りやすいが丈夫だとか、色々と選択肢がある。
 選択の自由がなくても、もし自由になれば、違う選択もできたはず。
 選択のやり直しもある。綺麗に洗えていなかったので、洗濯しなおすわけではないが、似ていなくはない。選択を汚してしまったとか、選択眼が曇ったとか、選択そのものに問題があったりする。
 無選択、これが好ましいのは、選択のためにあれやこれやと考えなくてもいいことだろう。だが、選択の過程で出てくる事実関係、よりリアルな現実が浮かび上がったりするので、決して無駄ではない。
 三択と二択は、試験の解答方法ではないが、どれか選べばいい。二択は二つの中から選ぶ。一択は競合はない。選べるものが一つしかないのだから、選択の必要がない。だから一択とは言わないし、そんな言葉もない。
 言葉を選ぶ。これも選択だろう。選べるほど言葉を多く知っていなければいけないが、同じ言葉でも表情が加わると変わってくる。
 二択でどちらを選ぶかは自由で、三択でもどれを選ぶのかが自由な場合、かえって困ることがある。どれを選んでいいのかが分からないときだ。選ぶ前まではただの想像や印象、またそれにまつわる一寸したイメージだろう。実際に選んで、そのあとにならないと、本当のことは出てこない。
 こんなはずはなかったのに、とか、あちらを選んでおけばよかったのではないかと、選択のせいにする。しかし、どちらを選んでいたとしても、同じことを言っていたりする。
 選択ミスは本人の責任だが、はっきりとした根拠もないのに選ぶことがある。責任の取れる行動をしたいのだが、その目安が見えない。
 ただ、その人が今、その人として生きているのは、もの凄い選択肢の中を阿弥陀籤を引くように選択し続けた結果だ。それで少なくても生きているだけでも大当たりだったことになる。阿弥陀様のおかげではないが。
 選択はやり直せることもある。もう一度分岐点が出てきて、そのとき、路線変更ができたりする。以前捨てた路線の先の駅と交差し、そこで乗り換えることもできそうだ。
 紆余曲折。山あり谷ありで、選択の間違いや正解も、関係しないのかもしれない。
 選択に間違うと寄り道になる。途中で気付くのだが、この寄り道が、あとで意味を持つかもしれない。
 何がよかったのかは、月日が過ぎてからでないと実際には分からない。
 
   了



2019年4月17日

小説 川崎サイト