小説 川崎サイト

 

桶狭間


 秋の終わり頃を晩秋というが、春の終わり頃の晩春はあまり使わない。ほとんど初夏で済ませている。その方が景気がいい。勢いがある。
 しかし、晩春には趣がある。少し暗いが、それは終わりがけの儚さのようなもの。だが春の終わりをしみじみと思うようなことはない。だから気温についての話ではない。我が世の春が終わろうとしているという意味だろか。そちらで使う方がピタリと填まる。
 その我が世の春を謳歌していた殿様だが、それに陰りが出てきた。おぼろ月夜の頃だった。
 平家の昔から栄耀栄華を極めてから落ちるのは早い。だがおごりはなかった。
 その兆しが見え始めたのは人が減っていくこと。去る者は追わずで、そのままにしていると、次々と去って行った。遠慮なくどんどん。
 この殿様に先がなく、伸び代も見出せないため、それに従っていても、何ともならないのだろう。野心家なら当然のこと。
「淋しくなりましたなあ」
「そうじゃな。おぬしは去らぬのか」
「もうこの年では」
「そうか」
「しかし、まだまだ従うものがおります」
「そうか」
「ここも落ち着いてきたことですし、他へ行ってみませんか」
「元気じゃのう」
「殿はまだお若い」
「私にはそんな野心はない。ここを引き継ぐだけでいい」
「大殿なら打って出ますぞ」
「何処へ」
「天下へ」
「父上にはその望みはない」
「だから殿に託したのでは」
「しかし、付き従う者が減っておろう」
「それは殿に覇気がないから」
「疲れるので、もうやめよう」
「病弱ではないくせに」
「年寄りはいさめるもの、そそのかしてどうする。それに無謀」
「いや、勢いだけでいいのですよ殿。それで活気づきます」
「京へ上るのか」
「はい。まだまだ東海一の大軍を誇ります」
「寄せ集めじゃ」
「天下一の大軍でございます」
「うむ」
「武田と北条は留守を狙いません」
「母上はご存じか」
「そのようにお育てになり、そのように跡目を継いだのではありませんか」
「催促しておるのか」
「天下は無理でも」
「やはり無理か」
「京へ向かって下され」
「行くだけでいいのか」
「はい、しかも大軍で」
「そちは僧侶のくせに血なまぐさいことを」
「尾張との国境で小競り合いがあります。その援軍に行く必要があろうかと」
「そんなものいちいち私が動くこともなかろう」
「いえ、大軍で駆けつければ、戦になりませんので、それで終わります。そのついでに京へ向かってもらえませぬか」
「援軍が目的なのか、京が目的なのか、どちらじゃ」
「両方でございます。殿自らの出陣、しかも大軍の援軍で、家臣達の忠誠心も強くなり、さらに天下を目指すと吹聴すれば、士気も高くなりましょう。去っていた家臣も戻るかと」
「よし分かった」
 そのようにしたのだが、晩春どころか、果ててしまう。のちにいう桶狭間がそのあと待っていたのだ。
 
   了
 

 
 
 


2019年4月23日

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