小説 川崎サイト

 

楽しい計画


 先に楽しい予定などがあればいいのだが、苦しそうなことばかりが先にある。もの凄い苦痛を伴うわけではないが、あまりやりたくないことばかり。それに関わること自体が苦痛。嫌なことは始終あるので、その中の一つだが、それが複数あると、うんざりする。おそらくそれらは無事越えられるようなことばかりなので、とんでもないことにはならないはずだが、もしもが発生すると手間取る可能性もあるので嫌なのだろう。
 そこで吉田は楽しいことを組み入れようとした。楽しいこととは楽なこと。そのままだ。楽にできることで楽ができること。
 本当は苦しいことなのだが、それが意外と楽にできた、などの楽ではなく、最初から楽だと分かっていることを考えた。これはお金を使えば得られるかもしれないが、物やサービスに対し、楽しいと思えなければ楽しくない。あたりまえの話で、苦しいのを選んで買ったり、使ったりしないだろう。
 それで吉田は楽しめそうなのを考えたのだが、意外とない。もの凄くあるはずで、楽しいこと間違いなしというものはゴロゴロしている。しかし、どうも気が乗らないとか、今はいいとか。タイミングが悪いとか、そういうことで、これというのが見付からない。
 いつも高いので食べない刺身。これを食べてみたいとは思うのだが、寿司ならご飯付きだ。それなら寿司屋へ行けばいい。それもうんと高そうな。そうなると、そんな店は知っているが、入ったことはない。その入口が苦痛。高すぎることを心配しているのではない。一寸高そうな寿司屋は入りにくいものだ。まるで客が店屋にサービスするような感じなる。どちらが偉いのか分からない。金を払っている方がサービスを受けるのだが。
 それで、にぎり寿司を置いているコンビニを思い出した。これなら敷居は高くない。しかし、プラスチックの容器をパカッと開けて食べる握りは、今一つ。紫、つまり醤油だが、ビニール袋を切る手間も嫌。それと、間に入っている草のようなもの。これは芝居の書き割りのようなビニールの草で、これは食べられない。コンビニの寿司でもスーパーの寿司でも同じようなものだが、果たしてこれが楽しいことだろうかと考えると、それほどでもない。
 では何故寿司なのか。それは刺身だ。お作り。たまに行く食堂で刺身を食べたいのだが、高いので、いつも避けていた。だから刺身を堂々と注文できると楽しいだろうと思っていたのだ。
 それならその食堂へ行って刺身を注文すれば楽しいはず。しかし、そんな大ネタではない。小ネタなので、満足度が違う。もう少し華やかなのがいい。楽しいというよりも嬉しいような。
 刺身ネタはその程度なので、そんな予定を立てても仕方がない。それで刺身も含まれる旅行の計画はどうか。海岸沿いの観光旅館。これは海鮮料理が出るだろう。山の中の旅館でも刺身や天麩羅は出る確率が非常に高い。御馳走の定番だ。
 だから普通に観光地で泊まれば、その夕食で刺身が出るので、刺身への思いも含まれる。また天麩羅もあるだろう。
 それはいいが、何処へ行くかだ。刺身を食べに行くわけではない。観光が目的。
 しかし、ここへ行きたいというような場所がない。旅行案内などを見れば、その気になるだろうが、これは無理に探しているようなもの。いつか行ってみようかという場所が最初になければいけない。しかし、その用意がない。普段から行きたい場所などない。
 そうなると、一番お手軽なのは、何かを買うことだろう。だがこれも普段から欲しいと思えるものがない。あるにはあるが、別になくてもかまわない程度。それよりも、実用品を買う方が先。しかし、タワシを買っても楽しくないだろう。
 贅沢品を買う。これは効くかもしれないが、その選択で難儀するだろう。選択しなくてもいいような事柄なのだ。必要ではないため。
 ということは吉田はさほど豊かな人生を送っていないのかもしれない。生きているだけで一杯一杯。
 趣味があればそれで楽しめるのだが、吉田にはない。要するに面白味のない人なのだ。
 ということは面白いことが苦手なのかもしれないし、また面白いことを必要としない人なのかもしれない。
 それで吉田は楽しいことを計画することをやめた。そんなものは勝手にやってくるかもしれない。滅多にないがたまにある。
 それでいいのだろう。
 
   了

 


2019年5月4日

小説 川崎サイト