小説 川崎サイト

 

ソシュールを聴きながら


 薄暑の頃、疋田は憂鬱になる。気候は春からさらに勢いづき、日も長く、元気いっぱいで、お膳立ては揃っている。それが憂鬱なのだ。何をするにも良い調子でいく時期なのだが、やることがない場合、勢いだけが空回りする。そしてやや汗ばむ時期なので、いい汗を出して動きたいのだが、なかなかそうはいかない。
 疋田は早く梅雨入りし、鬱陶しい天気になるよう期待する。そして湿気に満ちた重い空気の方が疋田には合っている。
 うっすらと汗をかきながら、疋田はドアを開けた。友人の部屋だ。不用心なのだが、仕掛けがある。最初ノブを回したときは固い。そこからぐっと力を加えて回すとガシャッと開く。だから軽く回しただけでは鍵がかかっていると誰でも思うだろう。さらにノブはガシャッと回っても、ドアは開かない。一度上に持ち上げると開く。だから二重ロックだ。
 さらにこのアパート、玄関口で靴を脱がないといけない。土足で入り込むこそ泥にとって同じことだが、それ以前に金目の物などどの部屋にもなさそうだし、見付かったとき、全部のドアが開いて人が出て来そうだ。いずれにしても泥棒が狙うような建物ではない。
「もう暑かったでしょ」
 疋田の友人吉原はソーメンを食べていた。しかも畳の上で。
「食べる?」
「いやいい」
「多い目にゆですぎた。手伝ってよ」
「じゃ」
 吉原は適当なコップを出してきて、そこに出汁つゆを入れる。出来合いのものではなく、自分で作った出汁のようだ。鍋からコップに移すとき、鰹節も流れ込んだ。
「氷、どうする」
「ああ、いらない」
「そうだね。私もいらない。冷たいものを食べると腹を壊すからね。それで一日調子が出ない」
「何かやってるの」
「私か?」
「うん」
「言えるようなことはやっていないので、正しくは一日過ごしているだけ」
 疋田は生ぬるいソーメンを口に入れた。唾液よりも温かい。
「少し暑いなあ」
「窓を開ける?」
「うん」
「しかし、力がいるんだ。それで汗が出るほどなので、何のために開けるのかが分からなかったりする」
「このアパート、建て付けが全部固いねえ」
「いや、緩んでいるところもある」
「あ、そう」
 吉原は窓越しの棚に置いてあるものをのけ、ぐっと横へと引いた。力を入れすぎたのか、パシンと大きな音がした。端まで行ったのだろう。物も落ちた。
 ソーメンを食べ終えると、吉原はコップを洗い直した。
「コーラ、飲むだろ」
「ああ、頂く」
 流石にコーラは冷蔵庫に入っている。ホームサイズだ。それを二つのコップに注ぐ。
「水薬のようだろ。この色ね。そこがいい。これは薬なんだ」
「そうだね」
 その話を聞くのは何度目だろう。
 疋田はコーラを飲むが、口に入れたとき、既に分かった。水を足したのか薄い。
「最近昼寝をしていると汗ばむようになった。いい気候だ」
「ああ」
「このアパート、静かだけど、何人住んでるの」
「満室だよ」
「え」
「安いので、人気があるんじゃない。落ち着くんだろうねえ」
「分かる気がする」
「みんな静かにそっと暮らしている。ほとんど部屋の中にいるんじゃないかな。ってことを言ってる話し声も聞こえているかもしれないがね」
「じゃ、そろそろ」
「もう帰るの、今日はソシュールの話の続きをしようと思っていたのに、シニフェがね」
「ああ、またの機会に」
「あ、そう」
 アパートの玄関口を出たとき、疋田の気持ちは明るくなっていた。
 
   了

 


2019年5月22日

小説 川崎サイト