小説 川崎サイト



商人宿

川崎ゆきお



 地方都市に未だ残っている商人宿がある。木造二階建てで、ちょっと大きな民家程度の外観だ。ビジネスホテルに建て替えるつもりだったが、資金が溜まるほど流行っていない。じり貧で廃業を考えていた。
 旅館という古びた木製の板看板だけが付着している民家だ。
 そこに付着するように滞在している物好きがいる。白髪頭の年寄りで、虫のような容姿だ。
 この種の箱にはこの種の虫が湧くのかもしれない。
 老人は大久保白扇と名乗った。
 ひと月の長逗留で、宿代は払っていない。
「そろそろかな」
 主人が息子に言う。
「追い出したほうがいいですよ。お父さん。もう払えないでしょ」
「払ってから出て行ってもらわんと」
「それでひと月も経ったんでしょ。工面できないようですよ」
「名のある画家かもしれん」
「でも、絵なんて画いてませんよ。毎日近所を散歩しているだけですよ」
 主人もついに見切りをつけ、白扇に告げる。
 白扇は出て行くことを承認した。支払いの足しにと色紙を書いた。
「お父さん、そんなの捨てなよ。落書きじゃないか。縁起悪いし」
「まあ、そう言うな。これも何かの縁じゃ」
 白扇は旅立った。
 主人は近所の古道具屋へ色紙を持って行った。
「大久保白扇じゃないの」
「有名なのか?」
「画壇の長老だよ。知らない人間はいないよ」
「わしゃそっちのほう疎いから」
「で、これは書き下ろしか」
「そうだ、支払いの足しにしてくれと」
「噂では白扇は、カード類を持っていないらしいからね。この色紙がカードだよ」
「もしやと思ったんだ。息子はホームレスになりかけの年寄りだと言うが、わしゃ、あの落ち着き様はそうではないと思っていたんだ。やはり有名な画家だったんだ」
「で、どうするの? この色紙」
「ここに来たんだから、売るに決まってるだろ」
「そうかい。売ってくれるのか」
「わしゃ、どうせ絵の値打ちなんて分からないから。手放しても惜しくない」
「じゃあ、買い取るよ」
「いくらだ?」
 金額を聞いて主人は驚いた。
 定食屋で、ちょっと御馳走が食べられる程度の相場だった。
 
   了
 
 
 

          2007年7月11日
 

 

 

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