小説 川崎サイト

 

天の狗


「大沢の向こうの奥沢へは行かないことにしていた。これは縄張りが別なのでな。まあ、入り込んでもいいのだが、危ない。獲物と間違えられる」
「じゃ、猟師にも縄張りがあるのですね」
「大沢までは里の縄張り。そこから上流へは行けんこともないし、間違って入り込むこともある」
「誰の縄張りなのですか。かなりの奥山になるのでしょ」
「渓谷が深いが、もう川幅は狭い。支流が多くあり、どの川も狭い。水が流れておらんところもあるし、湿地もある。ここは風景がいい。一寸した原っぱだ。ただ、雨が降ると池のようになるのでな。田んぼには向かんし、また遠すぎる。ぽつりとそんな場所があるだけ。そのため道もない」
「そんなところで暮らしている人がいるのですか。その縄張りを持っている人達でしょ」
「これは約束事でな。長年の決め事で、わしらは大沢までで、あの人達は奥沢まで」
「じゃ、大沢と奥沢の間はどうなっているのですか」
「緩衝地帯だよ」
「じゃ、大沢へ行ってもまだ接触はない」
「彼らも奥沢からは下ってこない。奥沢までが縄張り」
「ここの里の人で奥沢まで行った人はいますか」
「何人も行っておる。まあ、大沢周辺で迷い、入り込んでしまったんだろうなあ。わしも奥沢まで遡ってしまったことがある」
「川に沿って行けば迷わないと思いますが」
「それじゃ、猟にならん。それに川筋まで獲物は滅多に降りて来ん。人の気配があるのでな」
「でも水を飲みにとか」
「それは別のところにある。そこを狙うのだが、支流を遡ったりするうちに迷ってしまう」
「奥沢の奥はまだあるのですか」
「見えているじゃないか。あの高い連峰だ。あそこまでは流石に人は行かん」
「それで奥沢に住んでいる人達は何者なのです」
「住んではおらん。しかし、小屋はある。奥沢周辺に点在しておる。わしが行ったときは誰もいなかった」
「何者ですか」
「天狗だろう」
「まさか」
「天から降りてきた狗じゃないがな」
「天の狗って何ですか」
「獣のようなものだろう。まあ、人なので、獣ではない。野蛮な人達という程度。だが、それは見た目で、彼らよりわしらのほうが野蛮じゃ」
「不思議な人達ですね」
「人種が違う。顔が違うので、すぐに分かる」
「異人でしょうか」
「わしらから見ればな」
「話したことはありますか」
「そんな人はいくらでもおる。里へ物を売りに来たときにな」
「じゃ、顔なじみの人もいるわけですね」
「売り子に限られるがな」
「合いたいか」
「いえ」
「この村に薬屋があるだろ。こっちで暮らしておる」
「じゃ、仲が悪いわけじゃないのですね」
「ただ、奥沢へ入ってはならん。邪魔になる」
「興味が湧きました。行ってみます」
「夏場はおらん」
「そうなんですか」
「暑いのが苦手なようじゃ。北の山へ移動しておる」
「じゃ、今なら、彼らの縄張りに入り込めるじゃないですか」
「残っておるのもいるし、違う連中が来ておるかもしれん」
「有り難うございました」
 この話を書き留めた人は、もういなくなり、その孫も老人になった。祖父が若い頃書いていたノートだけが当時のまま残っている。
 
   了

 


2019年8月29日

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