ある読書子
下田は暇があれば本を読むタイプだが、本を読むために時間を作ることは滅多にない。しかし朝夕の電車内では必ず読んでいる。これだけでも結構な読書量になるし、何かで待っているときなども、待ち時間に読むし、喫茶店などに入ると、本だけ読んでいたりするので、読書家の部類に入るし、趣味は読書でも通るだろう。
名著、名書、古典的定番など、それなりに読んできた。そのため一般常識以上のことを多少は知っている。歴史に関してもかなり突っ込んだところまで読んだりしているので、それなりに詳しい。
しかしである。
何も役立ってはいない。
下田が身に付けた知識や知恵。世の中のこと、人と人とのこと、等々はほとんど実体験から得ている。本に書かれていたことなどいざというとき、役立たないというより、思い出せないのだ。じっくり時間を掛ければ別だが、そのときの状況や感情などが先立つため、身についたものしか役立たない。これは動物的な勘のようなものかもしれないし、下田独自の流れ、流儀のようなものが自然と備わっているのだろう。
ではあれだけ読んでいた難しい目の本などは何だったのか。そんなものをいくら読んでも知識は増えるが、すぐに忘れたりする。あまり必要ではないし、使わないためだろう。それは下田にとっての話で、実際には下田個人のローカルな問題は自分で何とかしないといけないということだ。
ただ、物事を多少本から得ているので、豆知識程度はあるので、物知りの部類に入るだろう。世の中にはこういうものがあったり、こういう考え方があったり、こういう世界があったりと、見てきたわけではないが、知っていることは知っている。しかし、その知り方というのがやはり浅い。また知っているだけでは何ともならなかったりする。
また、肝心なときに、知っているはずのことを度忘れし、ここぞというときに、それを披露できなかったりする。
そんな下田だが、隙間時間があると、もう癖のように本を開いている。活字を追うのが好きなのだろう。そしてそうしているときが一番落ちつく。
活字を追う目が荒れたり、ギクシャクしたり、また頭に入ってこないときは体調が悪いとき。本を開くとそれが分かる。当然一番使うのは目なので、視力の変化も分かる。そちらのほうが本の中身よりも役立ったりする。
一枚の名画を見るよりも、ありふれた自然の風景を見ているほうが入ってくるものが違う。絵など現実の風景には所詮敵わない。だから絵画など見なくてもいいのだが、絵は絵として見る楽しさがある。絵は劣化するが、基本的には四季の変化は受けないし、動かない。動く絵は動画だ。しかし、動かないから絵画的価値がある。絵を見て、現実の何かを引っかけ、想像する楽しみもある。絵を見て絵を書いているようなもの。想像で。だから同じ絵でも見る人によって違う。
下田は名画のコピーを額縁に入れ、飾っているが、それをたまに見るとほっとする。もう見慣れたものだが、風景の位牌ではないが、そこで固まって死んでいるのだが、それでこそ絵としての寿命が始まる。
まるで小説のような話、まるで絵に描いたような風景。そういうものと出くわすとき、やはり本や絵を見ていたからこそ分かる。
目が退屈し、頭が退屈しないように、そういったものも必要だろう。
知る楽しみ、それだけでも十分かもしれない。
了
2019年9月22日