見る
人は見ていないようでも見ているが、見ているようでいて見ていないこともある。
そんな細かいところまで見ているのかと感心することもある。それもほんの小さなところを。普通なら見ないようなところを。当然全体も見ているのだが、それはもう分かっているので、細かい箇所に目がいくのだろうか。
じろじろ見ている人は何も見ていなかったりしそうで、軽く窺っているだけの人のほうがしっかり見ていたりする。
じろりではなく、そっと見ている人のほうが正確だったりする。じろりと見ている人は、見ていますよということだけを言っている場合もある。
これが人に対してなら、じろりと見詰められると、何かあるのかと思うだろう。当然じろりと見ている人もじろりと見ていることを見られている。
次はチラリと見る場合だ。これは一瞬なので、じろりよりも短い。瞬間だ。
その次は目の周辺で見ている場合。そこにはピントは来ていないので鮮明には見えないのだが、何となく分かる。視野内に入っていれば、その端っこでもそれなりに見えている。ここで見ている人はプロだろう。
何のプロかは分からないが、要するに見ていることが分からないように見ている。意識して見ていませんよという程度。これは見ていることを知られるとまずいためだろう。または、見ていることを見られたくないとか。
年寄りが道行く人をじろりと見ているのは、目が悪いこともあるし、あれは誰だろうかと思い出している時間。知っている人なら挨拶しないといけないし、などとそれが確認できるまでじっと見詰めている。
しかし目を合わすとまずい相手だった場合、もう遅い。最前からずっと見ているのだから。
または目を合わせてはいけない相手、見てはいけない相手もいる。見たこと、これは相手の目だろう。顔でもいい。まあ、顔を見たときは目を優先的に見るだろう。鼻や口などを優先的に見ない。余程目立つものが付いているのなら別だが。
目を合わす、顔を見る。その瞬間意識したということになる。これだけでもコミュニケーションなのだ。目と目で話すようなもの。
そして見てはいけない相手がいる。目だけでもう始まっているのだ。
まあ、人の顔をじろじろと意味なく見るのは失礼だろう。見られている側は何かなと思うはず。
相手の目を見れば、その人が分かるというのは嘘。もの凄い嘘つきが、もの凄く澄んだ目をしていたりする。まあ、本人は嘘はついていないと思っている場合もあるし、また確信犯的な嘘つきでも目は綺麗だったりする。人はそれに欺されたりするのだが。
目を見れば分かるは、非常にいい言葉なのだが、ほとんど分からないだろう。ただ、瞬きの多さなどで、嘘をついているのがバレたりする。
目玉、瞳だけでは決まらず。瞼や、その周辺のシワなどで決まる。たとえば目をほんの僅か細めるとか、見開くとかで、表情はかなり違ってくる。
目は心の窓も嘘で、心など最初から見えないではないか。たとえ窓が開いていたとしても、何を見るのだろう。
目は口ほどにものを言い……などは川柳に近いが、これはあるだろう。目でものを言うというのは。たとえば簡単な合図なら目でできる。しかし目玉ではなく、大きさを変えることで。たとえば急にすっと目を細めると、これは何か合図を送っているように見える。状況によって意味が違う。にこやかにも見えるし、まずいですよと、伝えているようにも見える。だからその場の状況で、意味が変わる。
要する手足や胴体や頭の動きでは目立つので、目だけでものを伝えるのだ。まあ、鼻でもいいし、口の一寸した変化でもいいが、目が一番分かりやすいし、目立たないで合図を送れる。
眼科のお世話になる眼球ではなく、心眼というのもある。ここまで来ると、目玉ではなく、心で見ていることになる。だからビジュアルを見ていない。
これが一番レベルが高いだろう。しかし、この心眼が一番狂いやすそうだ。
了
2019年9月25日