範囲内の世界
世の中には範囲がある。当然個人にも範囲がある。その範囲から外に出ようとするのはうんと若い頃だろう。自分を試すためではないものの、行けるところまで行ってみようと。つまり未知なる可能性を持っているためだ。未知に対しては憧れを懐きやすい。夢や希望というのはそのあたりにある。つまり今の範囲から出たところ。
ただ、範囲を確かめる必要もない人もいる。与えられた範囲、常識的な範囲で充分という感じだが、それさえ難しい場合もある。普通にやればここまで行けるだろうという一般的な事柄でも、辿り着けなかったりする。
一般的な人達にとり、あたりまえのことであり、普通のことでも、そこに達していない人にとり、それは未知の世界。
当然、それら一般的な範囲から遙か彼方まで行った人もいる。平凡な村人ではなく、飛び抜けた村人で、平凡ではないので非凡な人だろう。こういう飛び出しは嫌われるものである。ただ、村のためにもの凄く役立つことをする人なら大歓迎だろう。村長になれる。しかし、村規模を越えてさらに広いところを範囲とした人は、あまり村には貢献しなかったりする。
それなりの年、分別が付く頃には、自分の範囲が何となく分かる。それが分別というものだ。ではもう冒険しないのではないかというと、そうでもなく。実はこの範囲内にも秘境があるのだ。
県会議員が市会議員ほど市内のことを知らないようなもの。あまり細かすぎて、そこまで見えないだろう。ローカルすぎるためだ。さらに市会議員よりも、町内の自治会の人のほうがよく知っている。ただ、お隣の町内のことはあまり知らなかったりしそうだが。
それをぐっと縮めていくと、向こう三軒両隣となり、そして我が家となり、自分個人となる。流石にここまで来ると、もう本人にしか分からなかったりするが。
さて範囲内の秘境だが、それは探せばいくらでも深みがあるはず。何も広い世界に出なくても、狭い町内でも十分深かったりする。
ある範囲内で物事を行う。これは広い世界で自由に泳ぐよりも、難しいかもしれない。
限られた資源を使い、それだけでやるようなもの。その範囲を超えた芸や手を使わないで、やりくりする。そこでは創意工夫とか、色々と凝ったことをしないといけない。だから難しいのだろう。
たとえば何でもないものを何でもなくはないように見せるようなもの。
これは幼児が使うクレパスで名画を描くようなもの。こちらのほうが実は奥が深かったりする。
了
2019年10月1日