小説 川崎サイト

 

枝葉に拘る


 日々の細々としたことも人生の一部だが、枝を見て木を見ずもあるし、木を見て森を見ずもある。また、より狭く、葉を見て枝を見ずもありそうだ。
 しかし、いきなり葉を見るわけではない。葉を探すため全体を見ている。そうでないと葉など見付からない。何処にあるのかを先ず探すだろう。そのときは全体を見ている。森を見ているし、木も見ているし、枝も見ている。そして葉へとズームインする。葉を見終えると、ズームアウトし、全体をそれとなく見ている。
 そのため、枝葉に拘ることは戒められているが、案外全体を見ているものだ。
 これは全体と部分の話だが、部分の中にも全体が含まれている。全体の影響が部分に出る場合もあるからだ。当然出ない場合もある。
 全体を見ている人は、何を見ているのだろう。その全体とは何処を指しているのだろう。それも含めて全体を見ているのだが、実際にはその中の一部を特に見ているのだろう。全体を見渡すときも、何かを見ているはず。果たしてそれが全体なのか、全体の中の一部なのかは分かりにくい。
 しかし全体を見ることはいいことだ。色々なものとの絡み合いなどが見える。だから、意味として見ていることが多い。目玉で見るのではなく、頭で見ているようなもの。
 全体の動きを知ることは大事だが、普段やっていることはもっと細かい部分的なところで暮らしている。常に高みから見ているのでは、用事ができない。
 結局、部分的なローカルな箇所に降り立ち、そこでゴソゴソすることになる。そうでないと具体的なことができないので。
 しかし、その全体だが、何処まで広げればいいのだろう。うんと広い世界となると、宇宙まで行ってしまう。また宇宙も宇宙の外側まで行かないと宇宙全体は見えない。その規模は必要ないだろう。
 さて、日々の暮らしの細々とした動きは人生の一部だが、その一部が集まって一生となる。一日のことを考えているとき、一生のことなど考えないが、それも含まれているのだ。一生の一部をやっているのだから、当然どういう人生なのかが何となく分かる。それは突きつけられるようなものでもあり、また可能性を含んだものとしても見えてくる。
 一時間もそうだ。一日にとっては一時間は僅かな時間。一日の中での部分だ。しかし、この一時間は一日規模で考えた上での一時間になっているはず。
 短い時間は葉や枝や木や森とは少し違うが、スケール的には同じ。
 その日、やっている非常にローカルなこと。何処で何をしているのかを、そこだけ切り取ってみると、それは小さなエピソードだろう。しかし、その中に人生が詰まっているのだ。今、何故これをやっているのかを考えただけでもう十分人生のレールが分かるというもの。
 だから、葉を見て森を見ていないのではない。実際には葉を見ながら森も見ている。いきなり葉だけを見るというのはもの凄く難しい。そしてどの葉を見ているかで、その葉を探すことが全体を見ていたことになる。
 そして、その葉を注目して見るということも、何故その葉なのかという背景を考えれば、ただ単に葉だけを見ているわけではないことは確かなのだ。
 枝葉に拘った人生、それも悪くない。意外ともの凄く広いものが逆に見えたりする。
 言葉というのも葉だ。ひとつの言葉の中に含まれている意味は非常に大きかったりする。
 
   了
 
 


2019年11月17日

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