指導者
今日はもう何でもいいから適当にやってしまうという日がある。何をやるにも面倒で、特に何もないような日だ。
何かに熱中しているときは、暇を惜しんで突き進むのだが、これはそのことよりも、この熱中で突き進むことの方が美味しいのかもしれない。一種の刺激であり、前へ前へ、次へ次への誘い水があるため。結果を知りたいので、面倒なことでも、シャキシャキとやる。
これは先に楽しみのようなものがあるためだろう。日常の中にそういうネタがある日とない日とでは違う。その内容ではなく、あるなし。
内容は二の次で、退屈しないで過ごせる方を取る。ただ、この場合、行き当たりばったりで、やっていることに統合性がなく、統一感もなく、メインとなる道が何処にあるのかさえ分からないような散漫なもの。
高梨をそれを散漫路と呼んでいる。まあ、散歩道のようなもので、何処へ寄ろうと勝手で、むしろ目的を散らせる方がよかったりする。
「行き当たりばったりでは困るじゃないですか、高梨君」
「はい、でも癖で、気が散るもので」
「散らさないようにしなさい」
「はい」
「もっとひとつのことに集中し、より深く追求していってこそが良いのです」
「でも余所見したくなりまして」
「一箇所に留まり、そこで懸命に生きる。これが研究者としては大事なのです。それでこそ専門家となり、世の中に何人もいない中の一人になれるのです」
「先生もそうですか」
「私は違います。指の数じゃ足りない。そこらにゴロゴロ転がっている中の一人です」
「でも、専門家でしょ」
「だから、その道は険しいのです。まあ、それは私の力が足りないのでしょう」
「じゃ、懸命に励んでも、仕方がありませんねえ」
「しかし、君のように散漫ではものにならん。私の研究は浅いが、それでも世の中に役立っておる。こうして後進の指導を任されておるのだからね」
「でもそれは研究とは関係ないでしょ」
「そうだがね。まあ、研究のやり方を教えているようなもの。その中身じゃなくね」
「教育ですね」
「そうだ」
「はい」
「だから、君のやっていることを見ていると、心配でならん。もっとひとつのことに集中し、そこを掘り下げて行きなさい。これは地味な作業になりますが、先々役立ちます。それだけ経験も知識も増えるのでね」
「いや、僕は研究に熱中できるだけで十分です」
「困ったものだ。私の指導が悪かったのかもしれん」
「いえ、それは関係ないです。僕が勝手にやっていることなので」
「じゃ、いいがな」
「気にしないで下さい」
「まあ、良いが、私もこんな指導、邪魔臭くなってきた。もう好きなようにしなさい」
「先生も、また指導が必要ですねえ」
「それを言うな」
「はい」
了
2019年11月22日