小説 川崎サイト

 

画伯の漫画指導


 町内に古い画家がいる。絵が古いのではなく、キャリアが長い。しかし画業で身を立てるほどの絵は書いていないので、画家としてはそこそこ。しかし、近所では画伯と呼んでいる。そんな風貌をしているためだろう。ベレー帽を斜めに被り、よく近くを散歩している。本業は先生だ。当然絵の先生。美大で教えていたが、定年となり、今は専門学校でデッサンを教えている。これは風貌を買われたためで、いるだけでもいいような。
 アニメや漫画を教える学校のためか、漫画家志望の学生が教えを請いに来た。教室ではなく直接自宅へ押し掛けたのだ。これは授業ではない。だから一円にもならないので、画伯は適当にあしらうことにした。一種のサービス。それに直接遊びに来る専門学生など、この一人だけだろう。
 ちょうど描きかけの絵に飽いてきたところなので、ミルクとバターのたっぷり入ったビスケット、これはもうクッキーに近いのだが、それとお茶を出し、彼の漫画原稿を見た。
「頭で書いてますねえ」
「はあ」
「いや、手じゃなく頭で書いている」
「あ、そういう意味で」
「全て計算立てで書かれている」
「はい」
「漫画のことはよく分かりませんが、君の石膏デッサンを見ると、それがよく分かる。だから無機的なんですね。見る側が入り込む隙が無い。この漫画の絵もそうです。遊びがない。だから魅力が無い。よくできていると思いますよ。非常に整った絵です。だから魅力が無い。まあ、そういうことです」
「頭で書くのではなく、手で書くとはどういうことです」
「それは先ほど言いました。計算した絵だからです。だから計算しないで書きなさい」
「いや、頭で考えて、頭の中のイメージを具体的に絵に起こすのが、いけないのですか」
「あなた、今の言い方、結構ぎこちない。先に言いたいことがあるので、それが先走るのでしょ。絵もそのように書けばよろしい」
「僕の喋り方、おかしかったですか」
「いやいや、日常会話なんて、そんなものでしょ。喋りながら校正できませんからね」
「はい」
「絵もそういう風に書けば、勢いが増します。計算では出てこない絵が開けるはず」
「なるほど」
「あなた、この漫画の絵、かなり下絵をしているでしょ」
「はい。気に入るまで整えますので」
「だから、絵が硬い」
「じゃ、どうすればいいのですか」
 画伯はビスケットを口に含んだまま、じっとしている。唾液で柔らくなるのを待っているのだろう。
「絵は口ほどにものを言います」
「ひとつ頂きます」
「あ、どうぞどうぞ。これ、少し固いですよ」
「大丈夫です」
「中に甘い物がサンドされていますが、あまり良いものじゃありません。歯が痛いとき食べると、しゅみます」
「大丈夫です」
「それで、何の話でした」
「絵は口ほどにものを言い、とか」
「そうそう、絵というのはものを言っているのです。実は絵そのものが何かを言っている。一枚の絵でもね」
「はい」
「ところが、あなたは計算してしまい、それを封じています。だから伝わってくる本音が滲み出ないのです」
「はあ、漫画の絵にそれが必要ですか」
「さあ、私は漫画に関しては素人ですので、何とも言えませんが、絵画一般に言えることは確かです」
「有り難うございました。いい話、聞かせて頂いて。今後、方針を変えます」
「そうしなさい」
 学生が帰ろうとするとき、画伯はビスケットの箱を差し出した。
「少し固いんだ。私には合わない。土産代わりだ」
「はい、有り難うございます」
 この画伯、口は立つのだが筆が立たない。また非常にいいセンスを持っているのだが、それが絵に出ない。
 だから、自分のことを先ほど言っていたのだろう。
 
   了
 
 

 


2019年12月8日

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