小説 川崎サイト



夏休み

川崎ゆきお



 谷田老人は散歩中、いつもとの違いを感じた。
 小学校の前だった。
「祭日だろうか」
 谷田老人は曜日を思い出そうとした。平日と土日の区別はついている。息子が遅くまで眠っている日は土日だ。
 今日は息子は早く起き、家にいない。だから土日ではない。
 この時間、いつもいるはずの子供の姿がないのだ。それが異変のように思えた。
 梅雨明けの暑い日だった。
 谷田老人は何か事件でも起こったのかもしれないと思い、道端から小学校を見た。
 金網越しに校庭が見えるが、誰もいない。人の気配がない。
 何か事件でも起こっていれば、大人が校庭をうろうろしているはずだ。
 校庭も校舎にも異変を思わせるような景色はない。
「夏休み」
 谷田老人はやっとそこにたどり着いた。
 下校中の子供がいないのは当然だ。
 谷田老人は夏休みのことを思い出した。もう何十年も前の昔のことだ。
 学校へ行かなくてもいいことが何よりも幸せだった。朝は好きなときに起きればよかった。
 それは今もそうだが、あの頃よりも価値があった。
 夏休み、特に何かをしたわけでもなく、特別な思い出はなかったが、非常に長いひと月余りだった。
 今はあっと言う間にひと月が経過する。あの頃には時間の長さと深さがあった。
 一年の中には深い箇所と浅い箇所がある。夏休みは深い箇所で、そこだけは異様に深かった。まるで海底に穴が空いているような深みだった。
 それだけに記憶もあいまいで、意識の底に沈んでいる。
「あの頃が一番楽しかったかもしれんなあ」
 今も谷田老人は年中夏休みのような暮らしをしている。
 昔と違うのは蝉捕りに行ったり、川で泳いだり、親戚の家に遊びに行ったりしないことだ。
 この違いが時間を浅くしているのだろう。
 谷田老人の前に網竿を手にした小学生が現れた。後ろから幼児自転車に乗った弟らしい子供が追いかけてくる。
 二人の子供は谷田老人とすれ違った。
「深い時間を過ごしておるのかのう」
 谷田老人は羨ましく思った。
 
   了
 
 


          2007年7月25日
 

 

 

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