小説 川崎サイト

 

個人の祭り


 祭りのあとの寂しさというのがあるが、あとの祭りというのもある。次の祭りではなく、行ってみると、既に祭りが終わっていた。これは淋しいかもしれないが、祭りのあとの寂しさとは少し違う。一方は祭りを楽しんだが、片方は体験していない。
 だからあとの祭りの方は、残念だろう。
 祭りを満喫し、そして終えたあとの虚脱感のようなものと、もう終わってしまったのかという寂しさもあるが、満足後の余韻もある。
 どちらも次の祭りを期待するのだが、あとの祭りの方は次の祭りまでの期間が長い。一回欠席したようなものなので。
 そういう年に一度の村祭りのようなものでなくても、色々なイベントがあるし、祭り騒ぎがある。イチゴ祭りや紅葉祭りは、そういう神事ではないが、年に一度だろう。別にイチゴの神様や紅葉の神様がいて、お参りするわけではないが。そこへ行くことを参るともいう。参拝は拝むが、鑑賞で行く。参観料が取られそうだが。
 そういった定期的な団体による祭りだけではなく、個人の祭りもある。当然その前に家族の祭りとかも。親が子供のためにやる祭りだろう。雛祭りとか。
 そして、今では個人規模の祭りが結構ある。これは一人で勝手に作った祭りのようなもの。
 祭りは特別な日。一般的な祭りに興味がなく、またさほど楽しいと思えない人は、この個人的な祭りに走るのかもしれない。
 自分だけが知っている神様。自分だけが持っている神様がいるのかもしれない。これは仏でもいいのだが、仏の種類には限りがある。しかし神となると、いくらでもいる。誰も知らない自分だけの神など、人の数ほどいるだろう。
 個人にも聖なる領域がある。公的な聖なる場所などがもう飽きられたり、ありふれていて聖ならざる場所になっていたりするためだろうか。まあ、そういうのに便乗するのも悪くはない。初詣とかがそうだ。人が集まればそれで祭りなのだ。
 さて、祭りのあとの寂しさか、あとの祭りの残念さ、どちらがいいだろうか。当然祭りのあとの寂しさの方がいいだろう。あとの祭りの人は次の祭りへと向かう。祭りを終えた人は、しばらくはじっとしているだろう。ある程度満たされたので。
 あとの祭りの人は、取り戻そうと、祭りを探したりする。まだ、祭りをやっていないので、すぐにでも。
 満たされた人と、未だ満たされていない人との違い。
 祭りは聖なる行事というより、賑やかさだろう。だから祭り騒ぎという。要するに騒ぎたいだけなのかもしれない。またはハレの場をできるだけ多く作りたいとか。
 村人が大騒ぎし、楽しいそうにしているのを神様は歓迎するはず。神様はそれを見て楽しむのだ。
 しかし、そうそう祭り騒ぎばかりが続くと飽きてくるもの。たまにだからいい。
 祭ろわぬ人もいる。祭りは集まることでもあるとすれば、参加しない人。祭りに加わらない人。または加えてもらえない人もいるだろう。
 個人の祭りは何を祭っているのかは分からない。ここでも祭りのあとの寂しさや、あとの祭りの残念さがあるのだろう。だが、誰とも共有しなかったりする。
 しかし、一人だけで祭りをするというのは最初から矛盾しているように思われる。
 
   了


2019年12月15日

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