小説 川崎サイト

 

伝統や正統


 正統の系譜というのがある。正統派と呼ばれたりするが、以前は異端扱いされていたのだが正統派に勝ったのだろうか。そして異端派が正統派になるのだが、それもまた、いつの間にか薄まってきて、別のものに取って代わられたりする。
 伝統というのもそうだが、正統も伝統も繋がっている。しかし、伝統あるものが必ずしも正統派ではない。その道のメインではないが、長く続いておれば、それが伝統となる。
 要するに、それらのものは長くあったり、いたり、また使われたりしているもので、より多くの人から馴染まれているものだろうか。当然それは一面だが、古くなりすぎた伝統は、当然使いにくくなる。または扱いにくくなる。それで、新種が現れる。これは改造型だろう。または他のものを取り入れたミックス型だったりする。それが上手く機能し、扱いやすく、不便がないとなると、長く続き、やがて正統派となる。何が正しいのかは分からないが、まずまずの線をいっているためだろう。他に候補がないとか、変わるものが一寸見当たりにくいとかで、まあ、妥当なところとして、正統派となる。だが、その中身は、それ以前からあった古い伝統なども引き継いでいるはず。それが少し今風に変化した程度だが、根はかなり前からあったもので、定番中の定番だったりする。
 ただ、正統や伝統が途切れたままのもある。後継者がいないようなものもあるし、またもうあまり使わなくなったとか、用がない世の中になったとかで、途切れてしまう。需要がないためだ。
 しかし少数の一部の人がそれにまだ関わっており、細々と昔の伝統を守っていたりする。守るために守るわけではないが、存続しているだけでも意味があり、なくなれば、他に影響を与えるような要石のようなタイプもある。必要なことがあるためだろう。
 伝統という限り、長く続いていないと駄目だし、また、機能を果たしていないと駄目。保存のためだけにあるようなものは、かなり弱いが、そのものになくても、別のところで活かされていたりする。
 結構新しいものでも、意外とそこに流れているのは古臭い伝統から来ていたりする。姿を変えて化けているので分からないのだ。
 そういうのが入っている場合、正統派の系譜を残しているということになるのだろうか。つまり、筋目だ。
 まあ、人が作ったものには、あるパターンがあり、型がある。その型はそれほど多くはないので、結局は同じような型を使うことになるのだろう。型は番が違うだけで、元は同じ型番だったりする。
 型は固定しているようだが、実際にはある傾向程度。このある傾向は大まかで、他の傾向と分けるため程度のものなので、しっかりとした決まり事ではなさそうだ。
 型があるとはある傾向がある程度で、その傾向だけでは窮屈になると、型破りが起こる。型を壊したり、破ったりするのだが、被害に遭った型も、それなりに残り、復活を企んでいるかもしれない。
 今あるものは以前にもあったことで、形を変えているので、分かりにくい。人がやるようなことなので、限りがある。まあ、人でなしのやることもあるので、それを入れると、型番も多くなるが使う人は希だろう。
 伝統ある正統派の系譜。これは安定感がありそうだ。何故なら、多くの人が昔からそれを選んでいたためだろう。それが形式的になりすぎたり、時流に合わなくなり、骨董品になっている場合もあるが、昔から続いているものは、それだけで価値がある。価値がなければ消えてなくなるだろう。やはりいいので残る。良いことでも悪いことでも。
 骨董趣味というのもある。これは今風なものの中にその系譜を読み取るとき、必要なのかもしれない。新しいものの中に骨董品を見出す。つまり、系譜を見ているのだ。
 ものや事柄には原型があり、それがしっかりとした形となり、長く用いられたりすると、伝統になり、また他の類似するものよりも優れていれば、正統派となる。いずれも人が作り、人が選びだしたものだが、時流が変わればものも変わってしまうが、決して消えてなくなるわけではない。
 当然昔の正統派が今では異端だったりすることも起こる。ある傾向が時流により、評価が変わるためだろう。
 目新しいもの、今の正統派、よく見ると、昔の古臭いものを結構取り込んでいたりする。伝統が途切れたものも、別のところでどっかりと座っていたりしそうだ。
 そのため、古い新しいはないのかもしれない。
 
   了
 
 


2019年12月18日

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