否定肯定
一度否定したものを復活させる。これはよくあることだ。否定した限り、何か理由があり、それをまた肯定するのにも理由がある。それなら最初から否定しなければいいのだが、この否定があるから肯定もあり、肯定があるから否定がある。この動きが実は動力になっており、否定ばかりしていると減速する。当然肯定ばかりしていても減速する。
ただそれは否定のための否定、肯定のための肯定であってはならない。ものを見ず、論理的なところだけで動いているためだ。
一度否定したものが復活するのは、否定した後に来たものの具合が悪く、肯定から否定へと変わったためだろう。
否定は分かるが、肯定が分かりにい。最も否定も肯定も分かりにくい。どちらがどちらかなのかワンテンポ置かないと分からなかったりする。そのため否定と肯定がごっちゃになり、逆のことで使っていたりする。そうなると否定も肯定もない。最初からなかってもよかったのかもしれない。
肯定もしないし、否定もしない。では何をやっているのだろうか。嫌と好きだけかもしれない。小さな子でもそれは確実にやっており、大人よりも露骨だ。イヤイヤとスキスキだ。
よかれと思ってやったことだが、これはどうも間違いだと気付くことがある。そして別の方法をとるのだが、その方法もあまり芳しくない。そうなとき、一度否定したよかれと思ってやったことに戻ったりする。こちらのほうがましだったとか。または、とりあえず戻るとかだ。
そしてこの場合、いつでも否定され、いつでも肯定される運命にある。これは好き嫌いで決めているためだろう。
そこには一貫した論理はないが、論理立てると、それは誰かの意見や流派になってしまう。そしてそれら流派も変動相場制で、時代により反転したりする。
また周囲を見渡すというのもある。これは世間の様子を見てから動くというものだ。自分一人だけでは頼りないので、似たようなことをしている人がいないかどうか。一人でもいると安心する。二人集まれば世間であり、社会だ。一人だけだとただの妄想。その人しか理解できない世界。だが他に一人いるとなると、知っているだけでも一人なので、知らないだけで、そういう人がもっといるはず。
何かについての考えではなく、人はどう考えるのかという考えに対しての考えがある。そうなると抽象的になり、否定と肯定などの言葉が紛らわしいように、論理エラーを起こしていても具体性がないので分からない。だから、それをやっているとき、何かおかしいと思うはず。具体的に分かるのは好きか嫌いの次元だろう。感覚の。これは直接具体的なものと接している。実体験だ。論理ではない。
「それで合田君、以前やっていたことに戻るわけですかな」
「そうです。一度否定したのですが、復活です。こちらが本命だったと気付いたのです」
「じゃあ、新たにやろうとしていたことは取りやめですか」
「そうです」
「否定したわけですね」
「そうです」
「じゃ、また肯定するかもしれませんね」
「それなら、一度否定したものが復活し、また否定してしまい、また肯定してしまいの繰り返しですねえ」
「ダイナミックでいいよ」
「忙しいです」
「いくらいいものでも飽きてくるものです。だからたまには否定して、やめてしまった方がいいのかもしれませんねえ」
「先生もそうですか」
「さあ、君ほど目まぐるしく研究対象が変わるわけではありませんが、多少、その面はありますねえ。違うことがしたいとね」
「僕は違うことばかりしています」
「そのうち落ち着くでしょ。それが本命です。本命は狙っても出てこない。実際にやっているときに出てくるのです」
「はい、毎回ご指導有り難うございます」
「うんうん。言うだけは簡単だからなあ。指導なんて、そんなものだよ」
「あ、はい」
了
2020年1月9日