源平藤橘
橘通りというのがあるのだが、その道と交差しているだけで、通り過ぎるだけ。よく通るその道は急いでいるときが多い。仕事で寄る場所なので、約束通りの時間までに行く必要があるためだ。近所を自転車でウロウロするようなわけにはいかない。
橘通りと交差しているが、北側にはない。十字に交差していないでT字。だからここから始まり、南側の何処かに行くのだろう。それほど広い道ではない。だが、一方通行ほどには細くはない。
ある日、その橘通りを左に見ながら信号を渡り、仕事先で用事を済ませた。そのあと、もう一つ用事があり、そちらに寄ってから帰路につくのだが、その日はその用がなくなったようなので、もと来た道を戻ることにした。これは滅多にない。いつも二つ回るため。
だから戻り道も違うので、橘通りの前を通ることはなかった。
戻ってからの用事はないので、少しゆっくりできる。それで田中は気になっていた橘通りに寄ることにした。何の意味もない。そこを下れば海側に出る。下町が続いている。それだけのこと。
しかし橘というのが気になる。立花ではなく橘。
源平藤橘の一つ。奈良の昔から有名な四氏だがその中でも橘氏の印象は田中にはない。地味だ。名が出てくるようなことが少ないためだろうか。藤原氏のように別の名前で活躍しているのだろうか。むしろ源さんとか平さんなどは希だろう。別の系譜かもしれないし。
今、源平藤橘が問題になるようなことは普通の人にはない。しかし、道の名として使われている。
その通りのある場所は奈良時代は海だったはず。陸になったのは江戸時代で、長い年月を掛けて海を陸にしていったはず。だから江戸以前のものはそこにはない。橘氏が活躍していた時代、ここは海なのだから、ゆかりのものもないだろう。
そんなことを思いながら、田中は橘通りに踏み込んだ。住宅と店屋が少しある程度だが、さらに進むと、歩道横が商店街になるが、軽い屋根が上にあるだけで、トンネル形ではない。そのため、向こう側の歩道もそんな感じで、傘を差した道のようなもの。ほとんどの店はシャッターを閉めている。もうよく見かける最近の光景で、特に意外だとは思わない。
さらに進むと、少しくたびれた家が見え始め、下町らしさが出てくる。気取った家などなく、ギリギリ雨露を凌ぎ、傷んだところを補強している程度。その中には新築されたのか、今風な住宅もある。ごそっと大きな災害でもあれば、ほとんど建て替えられるはずだが、その難を逃れ、生き延びているのだろう。戦前からあるような家もある。
その向こうは潮の匂いがしてきそうだが、実際には工場地帯で、別の匂いがする。つまり、このあたりの住宅は、それらの工場で働いている人や家族が主に住んでいたのだろう。
橘通りは海岸まで続くが、その手前が工場のため、海までは行けない。そこで途切れる。
そして、町名を見ると、潮崎となっており、海と関係する土地だとは分かる。潮崎の地名があったのは江戸時代前からだとすると、ここではなく、上の方だろう。海だったのだから。だから、元々あった漁村の潮崎が海まで伸びたことになる。
そして橘という名は何処にもない。
それなら潮崎通りでいいのではないか。
古そうなパン屋があるので、そこで聞いたことのないようなメーカーのパンを買い、店番の老婆に聞くと、ミカンだという。紀伊国屋文左衛門ではないが、ミカンで儲けた人でも出たのだろうか。
この老婆はそれ以上知らないようだが、もう一つ立花通りというのがあるらしい。それと区別するため、立花通りとは別の漢字にしたとか。ただ、この通り道の名、最近のものらしい。これは食パンを二斤買いにきたおばさんが言った。顔がまるで食パン。
だから、市役所が一寸格のありそうないい名を選んで付けたのではないかという話。
立花通りのある立花町は大きい。そして、潮崎と似たような場所にある。
だから、もう一つの立花通りとして、橘通りと名付けたのかもしれない。
パン屋の婆さんは橘通りという名に馴染みなどないらしい。
田中にとり、この通りに何か特別なことでもあるわけではないし、大きな謎もないので、それぐらいで探索を打ち切った。
ただ、今も橘通りと交差する場所を通るとき、やはり気になる。
源氏や平家は分かるし、藤原氏も分かる。しかし橘になると、一寸影が薄い。
それで、ネットで調べると、橘通りの突き当たりにある大工場、明治の創業者が橘さんだったらしい。
了
2020年1月18日