小説 川崎サイト



暑い視線

川崎ゆきお



 立っているだけでも一杯の日。体力がもう目一杯で何もできそうにないような猛暑の日だった。
 岡倉はいつものように散歩に出たのだが、歩けたものではない。歩く前から体がほてるように暑くなっている。
 息苦しい。
 家を出て数歩のことだ。玄関前から殆ど出ていないに近いが、隣家のブロック塀まで来ている。その照り返しが電子レンジの熱のように岡倉を焼いた。
「ここで立ち止まるのはまずい」
 岡倉は白いブロック塀を何とか通過した。しかし、引き返す機会を逸したことになる。既に玄関からかなり離れている。何というほどの距離ではないのだが。
「散歩に出たい」
 その欲求が勝ったのだろう。もう玄関が見えなくなり、わが家の屋根瓦が見えた。
 大通りに出ると街路樹が日陰を作っていた。
 岡倉はその下で立ち止まった。
 街路樹はポツンポツンとあり、日陰も繋がっていない。
 隣の日陰に老婆がいる。椅子に座っている。老婆の家はその前にある。岡倉とは馴染みだ。
 幼友達の家に嫁いで来た日も知っている。もう幼友達は他界している。
 何十年もこの町に住んでいると完全に地元の老婆だ。
 老婆が岡倉を見て目礼する。
 岡倉も返す。
 老婆は定位置だが、岡倉はここに立つ用事はない。暑いので日陰に逃げ込んだだけの話だ。
「暑いですねえ」
 老婆が挨拶の続きをする。距離があるし、車道を走る車がうるさいので聞き取りにくいが、意味はくみ取れた。
 目礼と同じ意味なのだ。
 岡倉はこの老婆と話したことはない。用事がないためだ。
 散歩を続けるのなら、老婆の座る場所を通過しないといけない。散歩に出たのだから、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
 暑いからといって戻るのも面白くない。
 岡倉は老婆の方へ歩を進めた。
 老婆は岡倉をずっと見ている。
「暑いですねえ」
 二人が最短距離に達した時、老婆がまた挨拶した。
「暑いですなあ」
 岡倉も挨拶を返した。
 岡倉は老婆の視線を感じながら歩いた。次の木陰でも止まらず歩いた。
 直射日光が岡倉の頭を直撃し、爆発した。
 岡倉は左へ三十度回転し、そのままダウンした。
「スリップ! ダウンノー、ノーダウン」
 岡倉は手をついたけで立ち上がった。
 そして、老婆の方を見た。
 老婆は岡倉を見ていなかったようだ。
 
   了
 
 
 



          2007年7月31日
 

 

 

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