小説 川崎サイト

 

梅見行


 梅の名所として知られている寺がある。境内ではなく、その周辺。植えたものだが、山中にある。そのため、街から遠い。わざわざ梅だけを見に来る人も希なのだが、決まった人数は出るようだ。人出だが、少ないわりには固定客が多いのだろう。それで寺が儲かるわけではないし、咲いているのは境内ではないので、特にイベントはない。梅祭りとか。
 また、この寺の年中行事も、特別なものではなく、人を呼ぶほどのものではない。
 山寺なので境内は広く、その周辺もお寺の土地。山の斜面を徐々に拡大し、墓地としている。
 その年もまた同じようなことが起こっており、隠れたる名所ともなっている。名物に美味い物なしというが、食べるものではない。
 数は少ないが、梅が咲いているときは、それなりに人が来ている。
 その名所はただの梅見ではない。少し変わっている。この寺だけのもので、それは雨の日。
 流石にこの日は寒い季節だし、山はさらに寒い。そのうえ雨が降っているとなると、人出はパタリと止まるはずなのだが、そうではない。見るべきものがあるためだ。雪にならないだけましという程度だが、もうかなり前からそれが始まった。
 寺の西側に続く渓谷がある。緩い斜面で、ここに梅が植えられている。あくまでも観賞用だ。その横に紅葉もある。桜もある。全シーズンいけるよう境内には四季の有名どころの花が咲いている。しかし、今は椿程度で、梅が旬。だが周辺には梅が一番多い。梅園のように。
 さて、最初の一人。それは雨の日に限って現れた人で、先駆者。傘を差しながら、渓谷の奥に咲く梅を見ている。立ったままじっと。
 これが絵になる。団体客ではなく、お一人客。付き合いで来いるのではないし、誰かに誘われて嫌々来ているわけでもない。純粋に梅を見に来ている。しかも雨の日。その方が人が少ないためだろう。
 それを見ていた人が真似し始めた。
 その後、その渓谷のあちらこちらに傘が見える。間隔を開けて、立っているのだ。
 団体で来た人も、そこで解散し、それぞれの梅の木に散る。そして長い時間、じっと立っている。
 その数が増え。今では雨の日の方が客が多い。それで、寺の売店が、少しだけ潤う。
 これは売店で番傘が売られているため。雨が傘に落ちるときのパンパンという音が歯切れがいい。その音を聞きながら滝に打たれたような気分になれるらしい。
 行のようだが、一人でじっと梅を見るだけ。それだけのことだ。まだ冬なので、冷えてくれば、そこでやめる。
 その最初の一人は、渓谷の一番奥にいる。雨の日は絶対に来ている。これがサンプル、見本、お手本、家元で、そのスタイルを真似ようと、その仕草を見ている。
 特に身体の動きはないようで、芸もない。ただただ梅が咲いている場所で立ち尽くしている。よく見ると、梅など見ていないのではないかと思える。
 これは何かの行。梅見行ではないかと、誰かが言いだした。だから梅見なのだが、梅見ではない。別のものを見ている。
 そして、桜の季節。この寺の周辺にも山桜が咲いている。ここで梅から桜へとバトンタッチ。
 そして、今度は梅見行を真似た人が桜の花見行を始めた。桜版だ。これは別の人。梅の人は桜が咲いても来ない。当然雨の日に限られるが。
 漠然と立ってじっとしている。立ち行の如く。しかも片手に傘。作法はない。
 要するにちらっと見た限り、雨の日に梅見をしている人にすぎない。何をしている人なのかが分かる。これがもし、何もない雑木林で立っておれば、怪しいだろう。
 この寺、雨の日こそが見所で、点在する傘、しかも動かない傘。番傘が売られているのは、婦人用の派手な傘では合わないためだろう。エチケットだ。当然貸番傘は足りないほど。
 多くの人が渓谷のあちらこちらでただただ立ちすくんでいる。これはこの寺の隠れたる名物となった。
 
   了
 



2020年2月19日

小説 川崎サイト