小説 川崎サイト



バスストップ

川崎ゆきお



 特に何ということではなく、何となく今いる場所から離れたくなるものだ。
 修一は、そのことに関し、際だった考えを持っていたわけではない。
 あくまでも何となく……なのだ。
 そのため、少しこのコースから離れてみようというだけの、軽い動機しかなかった。
 次の就職先が見つかるまで、フリーな時間を過ごすのも悪くはない。
 勤めていた頃よりもストレスは減った。
 逆に歯応えのない生活にストレスを感じたのかもしれない。
   ★
 修一は昼時、ファミレスの前からバスに乗ることにした。
 路線バスが走っていることは知っていたが、乗る用事はなかった。
 ここ数カ月、毎日のようにそのバスを見ている。ファミレス前にバス停があるためだ。
 しかし、修一の生活の中にはバスの出番はなかった。路線バスが走っている程度の認識なのだ。
 だからこそ、乗ってみようかという気になった。
   ★
 殆ど意味のない行為をするのは、そういう行動も可能だと思いたいのかもしれない。
 それだけのことなのだが、そこに修一の揺れ幅がある。
 少しは揺られてみたいのだ。
 修一は説得力のない行為に出ていた。自分自身は納得出来るが、他人には理解してもらえない動きだ。
 そういうことも可能かも……程度の動き。
 しかし、その動きに出られることに、少しばかりの喜びを感じている。
 風邪で詰まっていた鼻が、ある衝撃で、スーと通るように……。
   ★
 修一はバス停の前に立った。
 数分後、バスを待つ人が集まり出した。
 老人と主婦が多い。
 この道沿いに用事で行く人だろうか。電車や車、あるいは自転車で行くよりも便利な人達なのか。
 修一のように、趣味や気紛れで乗る人は少ないだろう。
 しかし、似たような乗客がいるかもしれない。
 なぜなら、修一もいるのだから。
   ★
 バスの正面が大きくなり、やがて道を塞がんばかり、壁のように迫って来た。
 修一は一番最初に待っていたので、真っ先に乗った。
 そして空いている座席を見付け、素早く座った。
 一緒に乗った老人は優先座席に腰掛けた。
 慌てなくても座席は十分空いていた。
   ★
 修一は行き先を見ないで乗った。バス会社も確認していない。
 市バスではなく、私鉄のバスだった。
   ★
 バスが走るに従い、見慣れた景色が消えた。
 修一はファミレス前の道沿いを百メートルほどしか移動したことがない。
 その道を利用する用件が、これまで一度もなかったのだ。
 この道を知ったのは、歩いて行けるファミレスが近くにあると、以前不動産屋に教えられたからだ。
   ★
 修一は車窓風景を見ていた。そして気に入った場所で降りようと考えた。
 その場所は市街地を出た辺りで現れた。田園風景がほんの少し残り、お寺の屋根が見えた。
 その辺りを散歩してみよう、と決めた。
   ★
 修一は降車ボタンを押した。
 赤いランプが一斉に点灯した。既に修一が押したので、他の人は押さなくてもよいという合図なのだ。
 そしてアナウンスが流れ、次のバス停で停車することを告げた。
   ★
 バスが止まった。
 そのバス停に到着したのだ。
 バス停のすぐ手前でボタンを押したようだ。
 しかし、バスは急停車したわけではなく、ゆっくりとスピードを落としたので、ボタンを押すのが遅かったわけではないようだ。
   ★
 修一は急いで運転席側のドアへ向かった。
 乗るときは後ろから、降りるときは前から、であることは、他の乗客の動きで分かっていた。
 修一はポケットから小銭を取り出しながら、運賃箱の前に立った。既にドアは開いていた。
 このバス停から乗る人はいないらしい。
 修一は運賃表の存在を知った。
 たまに乗る市バスと違い一律料金ではなかったのだ。
 運賃表は数段の表になっており、番号と運賃の組み合わせが並んでいた。
 整理券が必要なことを知ったが、乗るときに取らなかった。何かアナウンスが流れたような気もしたが、聞き取れなかった。
 きっと整理券をお取りくださいと、言っていたのだろう。
 修一は説明するのが面倒なので、整理券なしの料金を見た。
 それほど長距離を走る路線バスではないのか、三百八十円と読み取れた。
 修一はポケットから出した小銭を手の平で広げたとき、肘が運賃箱横のポールにあたり、パラッと落ちた。
 近くにいたお婆さんが、その中の一枚を拾ってくれた。
 小銭は後部座席にまで転がっていたので、拾いに行こうとしたが、手間がかかるのでやめることにした。
 しかし、手元の小銭は一円玉が多く、百円玉三枚を見付けることが出来なかった。
 五十円玉はなかった。
 十円玉も八枚はない。
 しかし、五円玉が数枚あった。それと一円玉を集めれば八十円になる。
 しかし、百円玉が一枚足りない。
 修一は小銭を諦め、千円札で支払うことにした。
 そして財布を開いたとき、後部座席の老人が飛び散った百円玉を拾ってくれたのか、指を突き出しながら、修一に声を掛けた。
 修一は老人の好意を無視するわけにもいかないと思い、百円玉を受け取りに行った。
 そして、運賃箱に百円玉三枚と十円玉七枚と五円玉二枚を入れた。
 運転手は修一が整理券を取り忘れたことを知っていた。四つ前から乗って来たのだから、料金は百八十円でよかったのだ。
 しかし整理券がない客は、最初から乗っていた客と見なさないといけない。
 一言修一が取り忘れたことを告げれば、運転手も知っているので、了解しただろう。
 運転手は料金箱に落ちた小銭を瞬時に数えた。
 十円足りない。
 運転手は知らないふりをすることに決めた。
 バスの横を乗用車が対向車線をはみ出して追い越した。
 修一は運賃箱の小銭を確認する運転手の息遣いに、妙なものを感じた。息が合わないという感じだ。
 何か奥歯にものが挟まっているような……、目に一寸したゴミが入っているような……そんな空気の間合いを感じた。
 その理由はすぐに判明した。
 運賃表を読み違えたのだ。
 修一は整理券なしは三百八十円だと思っていたのだが、近くで見ると三百九十円となっていた。8と9を読み違えたのだ。
 修一はポケットをまさぐった。
 十円玉を取り出そうとする仕草に対し、運転手は目立った反応を示さなかった。
 料金が足りているのなら、その旨を伝え、無駄な仕草をやめさせ、さっさと降りるように促すだろう。
 運転手はそれをしなかった……ということはやはり十円玉が足りないのだ。
 しかし、運転手はそのとき、バックミラーを見ており、修一の仕草に気付かなかった。
 運転手は修一がポケットから小銭を出し、手の平の上に広げて一円玉を数えているのを見て、まだ、何かやることがあるのかと不審がった。
 修一は五円玉一枚と一円玉五枚を料金箱に入れようとした。その前に運転手に、それを示した。
 運転手は、分かりましたとばかり、頷いた。
 修一は無事に料金を支払い、タラップを降りかけたとき、空足を踏んだ。
 階段だと思ったところがそうではなかったのだ。
 足が少し痛んだが、問題はなかった。少しバランスを崩しただけ。
 だが、次の足が出ない。
 足がつったのだ。
 どうしても次の一歩が出ない。
 修一はタラップの前で立ち止まってしまった。
 しかし、立っているわけではない。必死で足を出そうと動いているのだ。
 だが、立ち止まっているとしか見えなかった。
 運転手はドアを閉めるタイミングを逸した。
 修一はニヤリと笑った。
 照れ笑いだった。
 運転手は、まだこの客は何かやることがあるのかと不気味がった。さっさと降りれば、それで終わる問題なのだ。また、問題になるようなことは運転手も客もやっていない。
   ★
 修一は片足だけでタラップを降り、バス停の前で腰を下ろした。
 バスは急発進し、その後ろを何台もの車が続いた。
 修一は路上に座り込みながら、その列を見ていた。
 
   了
 
 
 

          2003年5月18日
 

 

 

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