小説 川崎サイト

 

浅野内匠頭


 目を覚まし、起きたとき、三村は春を感じた。気温ではない。その朝はいつもより寒い方。
 しかし窓から差し込む陽射しが違う。それまで天気が悪かったので、朝の陽射しは久しい。そのためかもしれないが、春を感じる。目でそれを感じるだけではなく、身体が元気になっている。何かがみなぎっている。冬の間、充電してたわけではないが、いい感じだ。こんなことで元気になるのだろうか。気象の影響は確かに大きいし、無料で得られる。
 しかし、三村には思い当たることがある。昨日、解決した問題がある。それから解放されたためだろう。これは断念ということだ。まあ、失敗したのだが、それで諦めがついた。
 それだけなら元気にならない。気力も満タンにならない。
 三村はそこを分析した。そういう癖がある。結論は次のことに移れることだ。失敗したので落胆するはずなのだが、そうではなく、新たなことができるので、わくわくしている。違うことが企める。三村はこれを浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と言っている。他では通じない。
 三村の浅野内匠頭が動き出したのだ。この人は江戸城松の廊下で刃傷に及び、切腹。まだ若い。桜が咲いている下で果てる。春が来ているのに、我が身は果てるという辞世の句を残している。
 その話と、三村の企みとは関係がない。内匠頭と引っかけただけ。
 赤穂の若い殿様はそこで終わるが、三村は次のことができる。しかも春。スタートには丁度。
 つまり、次へと進めることが喜ばしい。失敗し、終わってしまったので、自由になった。煮詰まっていたものが焦げて灰になり、消えてしまったようなもの。
 新たなこと、それができる。これが今の三村の精神状態。そう分析したのだが、その先までは読まない。
 新たな展開、新たなもの、新しもの。それは未知。そして、それを探すのが好きだ。それは企み。ここでも浅野内匠頭にかかってしまうが、浅はかな企み頭だが、企むのが好きなのだ。それは実際にそれを実行するよりも、次は何をやろうとかと作戦を練っているときの方が好き。これは困ったものだが、三村はそこは分析しない。それをすると、水を差すため。折角の元気も萎れ、枯れてしまう。
 だが、三村が匠になれないのは、すぐにやめてしまうため、長続きしない。だから経験値も積めず、技も身につかないまま終わる。ここでは内匠頭になることが大事だが、初々しい気分をいつも持つことができる初心者レベルが好きなようだ。
 そして、三村の春は始まった。
 
   了
 
 


2020年3月19日

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