小説 川崎サイト

 

一種の聖器


 神器というのがあるが、聖器はないようだ。西洋にはあるのかもしれない。まあ、聖なる物だと思えばいい。聖櫃、聖杯などが聖器に近いかもしれない。箱や器だ。
 三種の神器などは刀剣なども含まれる。聖という言葉は滅多に使うものではないようだ。また聖なる事柄は迂闊に言葉にしない方がいいらしい。
 ただ個人的には別だ。個人世界では神が走り回っている。神業として。神に近いほど優れたものや技だろうか。人では無理な技。
 聖人や聖者はいる。これは神なる人や、神なる者とは言わない。聖なるものは作ったりするし、人も聖人にはなれる。しかし人は基本的には神仏にはなれない。
 だが、個人の世界では聖なる人や聖なる物、聖なる動物などはゴロゴロしている。ただ、人に使われることが多いのだろう。物ではなく者専用に近い。
 だから神器はあるが、聖器はない。迂闊に聖器といえば性器が来るし、精気もあるし、性や生もある。
 下田が勝手に思っているのは聖器。三種の神器のように、三種はないが、聖なる器物。これはあくまでも個人用。
 その聖なるものは物。道具でもいい。これは茶碗や茶瓶でもいいし、カメラでも自転車でもアクセサリーでもいし、拾ってきた石ころでもいい。個人が勝手に思うことなので、何でもあり。当然下田はそれを人には言わない、というより言えないだろう。社会性は一切ない。だが、下田と社会を繋いでいなくはない。それが盾になり矛になる。
 何を持って聖なるものというのかは下田の感覚。だから人により聖なるものの条件なり規定はバラバラ。
 そして聖なるものの称号を与えるのは下田自身。だから、この世界では下田は偉いのだ。しかし、下田の聖器は下田よりも当然偉い。だから下田は聖器を崇めているが、儀式はない。粗末に扱わない程度。
 この聖器は下田そのものを現しているのかもしれないが、それなり聖器ではなく性器になる。それと似たような言い方や言葉が他にもあるだろう。だが、どれにも当てはまらない。だから聖器という造語をした。他で使わなければ問題はない。
 自分の内なる聖域とは関係がない。内なる仏とか神とかではない。もっと露出しており、外からでも見える。三種の神器が露出し、手に取れるように。
 聖なるものは、やはり直接言葉にしてはまずい。まずいというより簡単に言葉にできない。だから呼べない。ただ、聖器という言葉は言える。器だが、その器の中に入っているもを指せばいい。
 この聖器は一段高い。下田の理性よりも高い位置にいる。しかし神や仏ではない。アニミズムでもない。
 もう少し下世話な便所の秘密のようなことだろう。秘密にしてこそ、パワーが保たれる。
「下田君、また妙な研究を始めましたね」
「そうです。聖器です」
「紛らわしいので、やめなさい」
「ああ、言葉に出してしまいました。実はまだ、聖器という器の中に入れるものを決めていないので」
「要するに聖なるものが欲しいのでしょ。聖水とかはどうですか」
「それも、紛らわしいです」
「聖なるものはより俗っぽいものと裏表になりますからねえ」
「そうなんですか」
「まあ、そんな極端なものを使わない方がよろしいですよ」
「個人宗教のようなものですか」
「それは今は流行りでしょ。逆に俗っぽい」
「はい」
「だから、黙して語らずがいいのです。感じているだけで、それ以上何かややこしいことをしなくても」
「祭ったりとかですね」
「そうそう、余計なことをすると聖なるものも逃げてしまうでしょう」
「はい、分かりました」
 
   了
 


2020年4月29日

小説 川崎サイト