小説 川崎サイト

 

風景からのメッセージ


 探せばあるものだが、探しているときはない。それなら探せばあるものではないのだが、探す気がないが、常に探しているものがある。急に必要なものは探しても見付からないが、それほど急がないものなら、探せばあるものだ。
 また探さないとないものがある。このときは探せば見付かるかもしれない。探さなければ見付からないが、探せば見付かる。だから探せばあるものだ、となる。
 探さないでもあるものは、知っているもので、常にあるものだろう。探す必要がある場所なら、行けば見付かる。知っている場所に限られるが。知っておれば普段から探す必要はない。
 下田は常日頃から探しているものがある。だが、積極的ではない。急がないためだ。そしてそれほど必要なものではない。何かのついでに探すことはあるが、メインではない。だから探さないといけないものではなく、探す必要がないもの。しかし下田にとっては見付かれば気持ちがいい。
 本当に必要なものは探さなかったりする。探してまでやりたくないのだろう。これは嫌なことで、楽しいことではない。わざわざ嫌なことを探す癖はない。
 下田が常に探しているのは町のメッセージ。これは散歩中に見付ける。視界にそれが入ると、すぐに分かる。これはメッセージだと。こういうものは探す必要はないし、何の意味もない。しかし、散歩中、色々なメッセージが見える。看板などが一番いい例だろう。これは正真正銘のメッセージで、通行人に対して発している。積極的だ。そして作為的。
 そうではなく、壊れかけたブロック塀。少し欠けている程度だが、下田にとり、それはメッセージなのだ。何かを発している。傷んでいることは見れば分かる。こういうのは持ち主は見てもらいたいとは思っていないはず。塀なので、塀は見られてもいいが、塀の内側は見られたくない。だから塀で囲んでいる。当然塀がなければ踏み込まれるだろう。
 一部欠けていても塀の役目は果たしている。しかし、なかなか修理しない。下田はその前を毎日のように通るのだが、最初から欠けたまま。何年前かは覚えている。強い台風のあった年だろうか。何かが飛んできて、ブロック塀にぶつかったのだろう。
 さらに柿の木。これは最近見付けたものだが、秋の終わり頃はいやでも見ている。柿が成っているので。そして枝と実だけになった柿の木は、見飽きるほど見ている。
 そして柿の実もなくなり、ただの幹と枝だけになる。これも柿の木らしく、くねくねしているので、分かる。
 それで、視界から柿の木は消える。見るべきものがなくなるので。
 しかし、その後、妙な繁みを発見する。葉を一杯に付けた樹木。場所は柿の木のあった場所。しかし、見た感じ、柿の木に見えない。
 これは木が発するメッセージだが、木はそれを人に伝えようとしているわけではない。柿の実が柿色で目立つのは鳥に向けてのメッセージだろう。
 島田が受け取るメッセージとは、知っているものでも、知らないもののように見える事象があるということ。
 それらは一例で、下田は散歩中、色々なメッセージを待っている。探しているときには見付からないが、忘れた頃、出てきたりする。いずれにしても急ぐ用ではない。
 それらのメッセージを感知するのは下田の感覚。それをメッセージとして受け取るかどうかは、下田にかかっている。
 一つ一つのメッセージは、その事情などを探っていくと結構深い。自然からのメッセージなどは宇宙の始まりまで行くかもしれない。
 壊れかけのブロック塀。その持ち主がどんな感じでここで家を持ち、そしてなぜ囲いはブロック塀にしたのか。または最初から建っている家に引っ越したのか、または借家かもしれない。
 どんな家族が住んでいるのかまで行くと、物語の規模が大きくなる。一家の歴史を辿らないといけないが、そんなことをする必要はないだろう。
 受けたメッセージ、それは表面的なもの。奥までは分からない。だから合図を発している程度。信号を送っている程度。リアルな中身よりも、この表示だけで下田は十分だ。そして、それを見付ける。見付かっただけで終わる。
 そして今日も下田はそういうものを探しながら町をうろついている。
 
   了


2020年5月3日

小説 川崎サイト