小説 川崎サイト

 

犬棒


 カラッと晴れた梅雨の晴れ間。唐揚げのようにカラッとしている。油気はあるが、それは汗。それも流れ落ちるようなものではなく、汗ばむ以前の薄いもの。
 暑いことは暑いが松田は妙に元気。自転車を漕ぐペダルに勢いがある。その勢いで前の自転車をスラスラ抜くわけではなく、後ろから来ている自転車に追い越されなくて済む程度。しかし暑いのか、人も自転車も少ない。前方も後方も、人がいない。猫の子一匹さえいないというのは、逆だろう。猫を発見するより、人を発見する方が簡単だ。ただ街中での話で、山中や海原では別だが。何事にも例外はある。そして例外の中を生きているのがどうも自分らしいと松田は感じている。
 暑いさなか、昼の日向にウロウロしているのだから。
 そのウロウロも目的があってのことではない。何かを探してウロウロ、犬も歩けば棒に当たる式ではなく、ただのウロウロ。何かを見付けても、特に松田には変化はない。内にあるものが外の風景に視界を与えるようなもの。興味のないものなら視界に入っていても見ていない。
 松田はウロウロを楽しんでいるわけではない。ウロウロできるだけの背景がいる。ウロウロしているだけなら食べていけない。つまりお金がないと、ウロウロもできない。旅行ほどのお金はかからないが生活費がなくなるだろう。だから、有り金が切れる手前で仕事に出ないといけない。それがそろそろ近付いているところでのウロウロ。これは少し焦り気味で、安心してのウロウロではない。ウロウロにも心境がある。
 犬も歩けば棒に当たるはずだが、これは野良犬でも飼い犬でも繋いでいないことになる。放し飼いだ。野良猫は見ることはあるが、野良犬は見かけない。松田の子供の頃は町内に一匹ぐらいはいたものだ。また野原で子犬が捨てられていたりする。
 棒に当たっても仕方がない。棒なのだから。犬も頭を打って痛いだけ。それに前方に棒が立っているのに気付かないはずはない。だから、犬のことを言っているのではない。人間様のことだ。
 だから松田が棒に当たるとすれば、それは棒ではない。だが、犬にとっての棒に価値があるのかというとそうではない。犬の益にはならない。棒をどう犬が利用するかだ。有益なものとするか。
 背中が痒いので熊のように掻くのかもしれない。これなら、多少は良いものを見付けたことになるが、似たような背中掻きなら、いくらでもあるだろう。
 きっと犬は余所見をしていて、棒にぶつかったのだろう。では犬は何を見ていたのか。棒に気付かないほど良いものを見付けたのだろうか。
 人も歩けば棒に当たるのなら、松田も棒に当たるはず。しかし棒など見付けにくい。松田が思っている棒は一本の丸い杭のようなもの。丸太の細いタイプだろうか。棍棒のようなものかもしれない。そんなものがある風景は野原の柵とか、畑とか。
 しかし、犬は人を差し、棒は、棒ではなく某を差している。何かだ。だから棒をいくら探しても意味はない。
 要するにウロウロしていると、ひょんなものに出合うということだが、棒のようなものでは、あまり良いものではない。だが、それはまだ判断が早い。
 ただの棒だが、実は凄いものに突き当たった可能性もある。もしそうなら、ウロウロすることによる確率の問題。じっとしているよりも、良いものをゲットできる可能性の問題だろうか。
 だが松田は、そういった棒に当たったことなど当然ない。ウロウロしていて当たりそうになるのは人や車両だろう。電柱にぶつかるとかは、先ずないはず。
 犬も歩けば棒に当たるの、その棒。これはきっと有名な棒で、よく知られた犬棒だろう。
 
   了



2020年6月21日

小説 川崎サイト