小説 川崎サイト

 

王道


 時代によりセンスが違ってくる。これは感覚のようなものだが、感覚が感覚として独立してあるのではない。時代感覚というのは流れがあってこそ生まれる。時代の風潮もそうだ。風の流れ、潮の流れ、いきなり発生するわけではない。
 過去の何かがあったから今がある。いきなり今があるわけではなく、その今の中に過去が凝縮され、それが分かった意味での含蓄のようなものから次の感覚が流れ出す。
 昔のセンスで作られたものに共鳴し、素晴らしいと思う場合も、その今から見ての話だろう。見る時代により、それは退屈なものにしか見えなかったりする。
 それは未来のセンス、先を行く感覚というのが、何か逸れてしまい、または、もうそれほどの旨味がなくなったためかもしれない。王道一直線が果てるようなもので、先が見てきたときだろうか。
 行く着くところまで行くと終わってしまう。だから行き着かないようにすればいいのだろう。先へ行く気がしないとかの問題もある。これももう美味しい感覚ではなくなっているため。
 たとえば刺激物が流行っていた時代なら、どこまでもエスカレートするが、これにも限界がある。すると、今度は刺激の少ないものが良かったりしそうだ。
「今度は何を言い出しているのですかな」
「退屈なもの、刺激の少ないものがよかれと思うのですが、如何でしょうか」
「刺激物ばかり追いかけすぎたためですかな」
「そういうわけではありませんが、大人しいのが良いかと」
「退屈でしょ」
「ゆったりできます」
「ほう」
「あまり際々しないで、リラックスできるようなものがいいのではと」
「まあ、そういう時代もあったでしょ」
「そう真剣にならないで、気楽にとか」
「何を目論んでおるのかは分かりませんが、時代の気分がそちらへ向かうのかもしれません。これは個人にぶつかってからの反応で、誰もが同じ向きになるとは限りませんがな」
「そうなんです。個々バラバラ、それでは王道が成立しません。一本の太い道ですから」
「まあ、王道を懐かしむこともあるでしょ」
「最近、本物に飽きまして」
「本物、それは王道でしょ」
「はい、王道は窮屈です。もっとだらだらしたいです」
「ずっとしているじゃないか」
「そうでした」
 
   了

 


2020年7月3日

小説 川崎サイト