小説 川崎サイト

 

緑池の怪物


「緑池の怪物なんだがね」
 池の縁を散歩中の高峯は、そう話しかけられた。嗄れた老人の声。発音がよく分からない。だから何を言っているのか、聞き取れなかった。しかし何か発していることは分かっていたので、老人を見た。
「緑池の怪物なんだがね」
 今度もよく聞き取れない。ミがどうかした。つまり身体のことを言っているのだろう。そのあとカイと聞き取れたが、これは何だろう。
 高峯はもう少し近付いてみた。
「緑池の怪物なんだがね」
 しかし、聞き取れない。こういう場合、フレーズというのがあり、少し聞いただけで、どういう方面のことを話しているのかは大凡分かる。しかし、何にも引っかからない。
 ただ、イケという言葉がやっと聞き取れた。三回目なので、当然だろう。イケとくれば、この池のこと。しかし高峯はここが緑池であることなど知らない。もし知っておれば最初の言葉で、緑池と聞き取れただろう。そして池に関する話だと。
 高橋は既に至近距離まで老人に近付いている。近付きすぎだ。そして身振りと目の動きで、もう一度、というように促した。もう一回言ってくれと。
「もうええ」
 これは聞き取れた。だがエエが分かりにくい。良いという意味だろう。だからもういいということで、これは分かった。もうよろしい。つまり断りだ。良いのではない。
 高峯は老人の機嫌を損ねたようだが、聞き取れないのだから仕方がない。すっと立ち去ろうとしたとき、「緑池の怪物がねえ」と、また声をかけてきた。今度はしっかりと聞き取れた。そのままの意味で、おそらく誤解はないだろう。
「怪物ですか」
「そうじゃ」
「そんなのがこの池にいるんですか。ネッシーのように」
「いるわけない」
 老人は、満足そうな顔で、微笑んだが、これは時代劇に出てくる悪人の非常に分かりやすい笑い方にに近かった。悪の靨も出ていた。
 高峯はからかわれたのだと思い、全て無視し、池の淵を回ることにした。始めて来た池なので、それなりに新鮮で、怪物などいなくても十分間が持つ。
 そして、岬のような出っ張た先端に、別の老人が立っている。釣り竿を持っていれば分かりやすいのだが、手にそれはない。それにここは魚釣り禁止のパネルがあちらこちらに貼られている。
 老人の手がおかしい。腕だろうか。
 さっと動かし、さっと前へ突きだした。何か体操でもしているのだろうか。しかし、運動はそこまでで、そのあとはじっとしている。
 エアー釣りだ。
 さらに先へ進むと鳥のような人がいる。しかも池の中に足は既に入っている。鵜飼いの衣装に近い。だから、この人はウショウだろうか、いやそんなプロがここにいるわけがないので、コスプレに近い。これで、怪しまれないで、魚を捕るのだろうか。魚釣り禁止だが、釣りは禁じられているだけ。
 鳥のような衣装の男は、網を放った。手づかみではなかったのだ。
 その前を通っても、鳥男は網を投げたり手繰ったりを繰り返しているだけで、高峯のことなど眼中にない。プロが仕事をしているという感じだろう。見世物ではない。家業を黙々とやっているように見える。しかも素朴に。衣装は大事だ。これで誰も口が出せない。
 そして池を一周したとき、またあの老人と遭遇した。
「緑池の怪物なんだがね」
 高峯は今度ははっきりと聞こえたし、納得できた。
 
   了

 


2020年7月4日

小説 川崎サイト