小説 川崎サイト

 

箱抜け


「今日も雨ですねえ」
「梅雨なのでね」
「鬱陶しいですねえ」
「こういう日は適当に済ませよう」
「そうですね。簡単に」
「テンションが上がらんのでね」
「同感です」
「できれば、早く終えて、今日はそれぐらいで、終わりにしよう」
「できるだけ、簡単にやってしまいます」
「適当に片付けてくれ」
「はい」
「しかし田村君だがねえ、あの男は簡単にはいかん、適当にはいかん」
「真面目ですからねえ」
「早くやってしまわないよう言ってきてくれないかな」
「そうですねえ」
 その田村はマイペースな人で、仕事もマイペース。そのペースは安定しており、雨で鬱陶しいから息を抜こうというようなことはない。
「落とすのですか。ペースを」
「上田さんが言ってる」
「先輩が」
「じゃ、ゆっくり目でね」
「しかし、それじゃ遅れますよ」
「遅れてもいいの。そんなに問題になるようなことじゃない。本当はもっと余裕があるんだ。だから急ぐ必要はないとか」
「でも、ペースが狂いますので、いつも通りやります」
「あ、そう」
 田村が言うことを聞かないということを聞いた先輩の上田は「さもありなん」と言っただけで、それ以上強要しなかった。何度もそういうことがあったのだろう。テコでも動くようなやつではないと分かっていたためだ。試しただけだろう。
 ところが、田村の姿が消えている。
 マイペースで、仕事をしているはずなのだが、どこを探してもいない。
 休みの時間以外は外出しないはず。
 田村は仕切りの中でいつもポツンといた。足は見えているし、立てば部屋を見通せる程度の仕切り。その中に田村がいない。
 トイレへ行ったにしては長い。
 そして一時間ほど経過した。
 だが、田村は戻ってこない。
 仕切り内のデスクを覗くと、仕事は終わっていないようで、途中だ。
「先輩、これはいったいどういうことでしょうねえ」
 上田にも当然分からない。無断で退社するような人間ではない。
 上田の先輩に玄米パン男がいる。昼はいつも玄米パンを食べている。
 隅だが窓際にデスクがあり、仙人部屋と言われている。こういう人は決まって丸っこい眼鏡をかけている。そしてこの人もマイペーで、田村と同類だ。
 上田は彼に聞いてみた。
「箱抜けだよ」
「あの仕切り部屋のことですか」
 そういう仕切り部屋は複数あり、一人でコツコツやる仕事に向いているらしい。それと、入れるのは優秀な者に限られている。だが、そこを使うかどうかは本人次第。
「箱抜けとはいったい」
「魔術だよ」
「それじゃタネがあるのですね」
「ない」
「じゃ、魔法ですか」
「成功したようだ」
「はあ」
「赤飯を炊こう」
「しかし、いったいどうやって」
「細かい話はいい。田村が箱抜けに成功した。分かっているのはそれだけじゃ。素直に祝福しよう」
「そういう話でいいのですか」
「まあな」
 
   了


 


2020年7月8日

小説 川崎サイト