小説 川崎サイト

 

そうだね


 吉田は忙しい日々を送っているのだが、何が忙しいのか、よく分からない。個々の忙しさは確かに分かる。だが、急いでやるようなことではない。だが、他の用事があるので、遅いと遅れを取る。その他の用事も急ぐものではない。だから、ずれ込んでも別段問題はないのだが、それでは寝るのが遅くなる。
 朝は早く起きないと、スタートが遅れる。だから遅くまで起きていても、朝は決まった時間に起きる。目覚めは悪いが、その日一日のことを考えると、遅れを取ってはならない。
 それだけ忙しく日々を過ごしているのだが、人に言えるような成果はない。便所掃除をしてタイルがピカピカになり、暗かったトイレが明るくなったとかだ。余程掃除をしていなかったのだろう。こういうことを果たして人に言えるだろうか。また言う機会などないはず。吉田が進んで話さなければ。
 だが、そんな話をする相手がそもそもいない。
 成果は普通の状態になっただけで、一歩進めた何かではない。しかし、吉田の中では成果はある。達成感がある。してやったりという満足感がある。これが引力になっている。
 それで、開かずの間のようになっている部屋を掃除したり、長く開けていない押し入れも掃除した。この場合、整理よりも、押し入れの床、板が張ってあるのだが、雑巾がけをしたい。多くのものが積まれたり、押し込まれているので、床など見えない。板が見えない。これを見えるようにして、スーと雑巾を動かしたい。整理よりも、それがしたいのだろう。雑巾を手にしたスケート。
 これも人に言うべきことではない。掃除一般でいい。細かいことまで誰も聞かないだろう。当然、そんなことを訊く知り合いもいないが。
 その他、雑雑とした細かい用事、また、長時間かかる用事が色々とある。だから、それらを順番にやっていると、一日があっという間に過ぎる。一円の儲けにもならないが、大きく損をすることもない。
 間違って機械ものを壊してしまうと損をするが、そんな機会弄りの趣味は吉田にはない。
 たまに少ない知人の一人から呼び出しがかかることがある。メンバーが一人足りないから来てくれと。誰でもいいのだ。
 当然そういう付き合いはしない。しかし、何度断ってもしつこく誘う知り合いもいる。吉田の態度を見れば分かりそうなものなので、鈍いのだろう。
 その鈍い知り合いの花田が予告なしにやってきた。礼儀知らずなわけではなく、鈍いのだ。よくいえば頓着しない人柄。
 吉田にとって残っている数少ない知り合い。友人でもなければ親友でもない。友達でもない。ただの知り合い。
「相変わらず忙しそうで結構じゃないか」
「ああ」
「何度も誘ってるんだけどね。いつも忙しい忙しいっていうから、見に来たんだ」
 わざわざ証拠のようなものを探しに見に来るようなことはなかろう。
「暇でねえ、吉田君が羨ましいよ。いつも忙しそうだし」
「貧乏暇なし」
「僕も貧乏だけで暇は一杯あるよ」
「何かやることを作ったら」
「そうだね」
 本当にやることがあるような人間なら、吉田のところなどには来ないだろう。来ても何のメリットもない」
「何か飲むか」
「いや、喉は渇いていない。お茶とかは合わないので、飲まないんだ。ビールならいいけど」
「冷蔵庫にない」
「だから、いいよ、いいよ」
 花田はそういいながら冷蔵庫を勝手に開けた。その瞬間、どっと何かが落ちてきた」
「そこはまだなんだ」
「え、何が」
「冷蔵庫の掃除はあとなんだ」
「あ、そう」
「何か飲むんなら、出すよ。トマトジュースの小さな缶があったはずだ。あとはウーロン茶ばかり」
「じゃ、トマトジュースにする。お茶より滋養がありそうだし」
「じゃ、出して飲んで」
「どこから」
「だから、冷蔵庫の中から」
「ジャングルだよ」
「それは大根の葉だ」
「あ、そう」
「その奥へ手を突っ込み、右側にあるパイナップルの大きな缶詰の後ろ側にある。見えないから、手で探る必要がある。できるか」
「ああ、やってみる」
 花田は小さなトマトジュースの缶を掴めたようだ。
「こういうの掴み取るゲームみたい」
「そうだね」
 花田はトマトジュースをパカッと開け、グット飲んだ。
 そして、しばらく黙っている。
「どうした。缶詰だから、腐っていないはずだけど」
「いや、トマトジュースなんて、滅多に飲まないから、こんな味だったかなあと思っただけ」
「トマトは食べるでしょ」
「食べる。しかし、この缶詰の味と違う」
「ジュースだから、そうなるんでしょ。添加物も入ってるし」
「そうだね」
 花田は、トマトジュースで、何やら勝手にショックを受けたようで、すぐに帰ってしまった。
 吉田は余計なことで時間を食われたので、用事の続きをした。
 
   了



2020年7月19日

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