小説 川崎サイト

 

意浴


 体調を崩しているとき、よくなれば、あれもしよう、これもしようと思うのだが、治ってみると、何もしない。意外と元気なときよりも、弱っているときの方が意欲が湧くものだ。
 それに気付いた坂上は、それならば体調を崩した方がいいような気がした。意欲だけは盛んで、元気。非常に前向き。しかし動けない。
 これは実際には今すぐやらなくてもいいので、意欲も湧くのだろう。実際には実行できないのだから。そして実行できる状態では、意欲が消える。下手に意欲を湧かすと、やらないといけない。これで止まる。
 坂上は足を痛めたことがある。歩くのが少ししんどい。だが、歩くことは歩ける。それで、元気になろうとよく散歩に出た。しかし、治ってからは歩いていない。散歩にも出ない。だから弱っているときの方がよく行動していた。しかし、普通には歩けないので、本当の意味での散歩ではないが。
 それで、足が治れば遠くまで散歩に出たいと考えるのだが、これも同じで、治れば何処にも行かない。
 身体だけではなく、気持ちが弱っているときもそうだ。
 要するに坂上はへたっているときの方が元気ということだ。気持ちが。
 しかし回復すればやらないというのはどういうことだろうか。何でもできる状態になっているのに、無視する。
 これは実際行動を伴うのが面倒なためだろう。本当に実行することが。ただ想像ならいい。そのときの方が元気。想像ではなく、実際にやるとなると、もう駄目になる。だから考えなくなる。
 それで坂上は色々なことを先送りし、手付かずの事柄も多いが、あのとき実行しておれば、今頃大変な目に遭っていることもある。やらなくてよかった、手を付けない方が実はよかった例も結構ある。
 当然、あのとき動いておれば、良い目にあったのに、というのもあるが、その良い目もまた、時期が来ると元の木阿弥になっていたりする。浮き沈みがある。
 元気なときにもリスクがあるし、当然良い結果にもなるが、元気がないときも、似たようなものなのだ。どちらがいいのかは分からない。
 ただ、どうでもいいようなことなら、どんな体調や精神状態でも、実行する。大事なことではないほどやりやすい。
 そして本来やるべきことは、そのままではしんどいので、それなりの加工をしてやる。たとえば掃除が嫌いなら、それを修行としてやる。決して掃除をしているわけではない。修行をしているのだと、すり替える。
 等身大というのがあるが、無理のないその人らしい感じだろう。その能力にふさわしいような。
 そして、それは意欲があろうとなかろうと、何となくやっている。
 下手な意欲は身を崩す、かどうかは分からない。ただ、意欲が湧き出しているときは気持ちがいい。温泉に入っているようなものかもしれない。
 意欲ではなく、意浴だろう。
 
   了


  


2020年9月13日

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