小説 川崎サイト

 

蟻の田中


 涼しくなりだすと、夏場死んだように働いていた蟻が動き出す。
 死んだように働く。それは働いているときの自分は死んでいるためだ。その蟻、田中は秋に蘇生する。
 そして死んだようにではなく、しっかり自分を生かした生き方に戻る。
 その蟻、田中がキリギリス宅を訪れた。キリギリス吉村は友人。この時期夏場の疲れで寝込んでいる。しかし、蓄えがないので、何ともならない。寝て治すしかない。
「うな重だ」
 その声で飛び起きた田中はアパートのドアを開ける。そのときは非常に元気で、衰弱していない。うな重の一声で回復したのだ。
「おお、田中君か、差し入れか」
「助けに来たよ。キリギリス君」
「有り難う蟻君」
 田中はバイオリン弾き。そのバイオリンだけは手放さない。安いので、値段はしれているし、売っても捨て値だ。それに商売道具。ただ、それだけでは食べていけないので、普段は働いているが、サボることが多く、今年は特に怠けていたので、蓄えがない。
「いつかキリギリスの恩返しをするよ」
「僕はこれから走り出す」
「ああ、夏場よく働いたからねえ」
「見ていたか」
「凄い仕事をしていたねえ」
「その頃は死んでいた。いま生き返ったんだ」
「怖いなあ。で、何をするつもり」
「旅に出ようと思う」
「そんなに稼いだの」
「小旅行になら行ける」
「僕は、このウナギを食べて、養生するよ」
「そんな一食だけでは足りないだろ」
「そうだけど」
 田中は鞄から札束を取り出し、ぽんと置いた。
「使えよ。これで養生するんだ」
「有り難い、借りるよ」
「さあ、僕は出掛ける」
「しかし、夏場働いただけで、札束を人に貸すほどお金が入るものなの。しかも今から旅行に行くんだろ」
「それは蟻の秘密さ」
「どちらにしても助かった。これでいいのを食べ、栄養を付け、元気になるよ」
 キリギリスの吉村は回復しても、働きに出ないで、バイオリンを弾いている。小さなライブハウス回りをしているだけなので、食べていけるわけがない。しかし蟻の田中から借りた札束が効いている。当分遊んで暮らせる。
 その頃、蟻の田中は旅行中で、それがまだまだ続くようで、なかなか帰って来ない。長旅だ。旅の途中、仕事をしているらしい。
 冬になった。
 キリギリスの吉村は相変わらず遊んでいる。冬を越せるだけの金はまだ残っている。
 しかし、遊び疲れたのか、飽きたのか、吉村は普通にまた働くようになった。
 一方、旅に出た蟻の田中は戻ってこない。行く先々で仕事をしているようだ。
 蟻の田中、いったいどんな仕事をしているのだろう。
 
   了
 

  


2020年9月14日

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