小説 川崎サイト

 

安穏


 日々安穏と暮らす。これはできるようでできない。できたとしてもしばらくの間だろう。
 忙しく働いている人が安穏と暮らしている、というようなことはあまり聞かないのは、忙しいと安穏とが水と油のためだろう。しかし、忙しい人が毎日忙しいのかというとそうでもない。たまにはゆっくりとしている日もあるだろう。その日は何もしないで、じっとしているかもしれない。それでは安静だが。
 忙しく日々立ち回っている人が意外と安穏たる日々を送っている可能性もある。忙しい方が安定していたりする。そして安らいだりも。逆に何もなく穏やかに暮らしている人の方が、心穏やかではなかったりする。これはまったく逆だ。見かけと中味は違うように。
 忙しさの最中は意外と静かだったりする。熱中しているため、雑音が聞こえない。
 安穏に暮らしていると、小さな雑音が気になる。それがうるさくて仕方がない。
 極楽にある地獄、地獄にある極楽のようなもの。そういう場所へ行って戻った人はいないので、あるのかどうかは分からないが、現実の何かの比喩だろう。イメージだ。
 このイメージは自分でも作れるので、何とでもなる。ただ、多くの人は似たようなイメージを懐いているので、それほどかけ離れることはないが。
 さて、安穏と日々を送るのを理想としている吉村だが、これは退屈で仕方がない。地獄の方が退屈しないのだが、刺激が多すぎる。
 それでちょとした刺激でいいので、何か少し野性的な、野蛮な、またはいけないことを少しだけ考えた。
 だが、それらは考えなくても、何処かからやって来るようで、安穏とした暮らしも、すぐに潰されたりする。
 生活を根こそぎ変えなければいけないことになると難儀だ。そんなときはいつもの暮らしに戻りたいと思うだろう。
 どちらにしても安穏とした暮らしは長くは続かない。ただ、気持ちの持ち方で、どんな状況でも呑気に暮らせるかもしれない。
 この呑気というのは良薬で、貴重なもの。なかなか呑気になれるものではない。呑気な人は最初から呑気。成ろうとして成ったのではなく、ただの気性だろう。
 それで吉村の理想はなかなか見付からない。呑気な気性ではないが、怠け者ではある。
 この怠け癖を活かせば、結構いいものができるのではないかと考えた。
 それもまた呑気な話になるのかもしれない。ということは吉村にも呑気のケが結構あることになる。
 
   了


  


2020年9月16日

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