小説 川崎サイト

 

好みの問題


 秋風が吹く頃、温かいコーヒーが美味しい。まだ熱いうどんを食べると汗が出るが、食べやすくなった。
 うどんには何も入っていない。うどん玉を買い、醤油と砂糖で煮こんだもの。これをうどんすきと岸本は言っている。だが、具はない。
 コーヒーは部屋では飲まない。喫茶店で飲む。別に好きなものではないが、それが癖になっている。それでも方々の喫茶店で色々なコーヒーを飲むと、その違いが分かる。これは味の違いが分かる人間ではなく、単なる好みだろう。
 そしてコーヒーそのものではなく、シュガーやシロップの味というのもあり、これで決まったりする。当然生クリームの味や香り。これが決め手になったりするので、純粋にコーヒーの味と香りの違いが分かっているわけではない。
 砂糖を少し多い目に入れると味が変わる。フレッシュもそうだ。瓶に入った生クリームを出す店では多い目に入れたりするし、少ない目だったりする。
 うどんだけを砂糖と醤油で煮込んだものが好きなのは、すき焼きの残りにうどんを入れたのが好きなため。これが肉や野菜よりも美味しかった。子供の頃だろう。だから一番美味しいものだけを煮こめばいい。肉汁や野菜からの出汁などは加わらないので、味は違うのだが。
 まあ、甘辛いうどんならいいのだろう。他のものは欲しくない。うどんだけが欲しい。だから貧しくてうどんだけを煮たものを食べているわけではない。
 ネギや卵を入れても、それほど高いものではないのだが、邪魔なのだ。
 人にはそういった好みがある。しかし強調するようなことではなく、またそれで争うようなことでも、主張すべきものでもない。ただの好み、嗜好なのだから。しかし、これが実際には岸本の場合大きな意味を持っている。岸本を動かしている大本営のようなもの。
 そのため、初対面での第一印象で、好みではなければ、それなりの関係になる。印象が良ければ、その内容よりも、優先する。好みの方が大事なのだ。
 この好みの阿弥陀籤を綿々とやることで、今の岸本があるようなもの。
 ただ、好みは変わる。お好み焼きの好みが変わるようなもの。豚玉からイカ玉になったり。
 この好みの変化で後退したり、後戻りしたり、復活するものもある。好みは羅針盤。
 しかし岸本は好き嫌いが激しいわけではないし、趣味性が高いわけでもない。実に平凡なもの。
 実際には好きになれないことでもやっている。だから嫌いなことはやらない人間ではない。まあ、そのへんに掃いて捨てるほどいる人間と同じレベルだろう。好みが高じて、達人レベルになれるわけではない。
 好みのものが選択できないこともある。それが商品なら高くて買えないとかだ。非常に好ましいものでも手が出せない。無理をすれば出せるが、そこまではしない。
 岸本が最近好みとしているのは、あまり好ましくないもの。だから好みではないもの。それに挑戦している。
 だから、固定した好みを常に持っており、軸がぶれないタイプではない。何せ好みなので、何とでもなる。
 岸本が分からないだけで、本当は好ましいものかもしれない。それを確かめるための冒険だ。そのほとんどは第一印象とほぼ同じで、やはり好ましくない場合が多いが、たまに好ましく思えるものにも出合う。これは岸本がそれまで誤解していたのだろう。本当は岸本好みのものを。
 そして、いずれは好みに囚われなくなればいい。
 ただ、違いがなくなると、それはそれで寂しい。
 
   了


  


2020年9月21日

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